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学問

「ことばは生き物」:学問はコミュニケーション仮説―言語学と科学哲学の歴史を適当につれづれと

投稿日:2016年6月12日 更新日:

「ことばは生き物」だという考えは分かるような気がします。だって、実際に生き物である僕ら人間が使うものですし、ことばであるためにはコミュニケーションが必要だからです。

そうやって、考えていく中で言語学と科学哲学の歴史を振り返ってみると、ペーペーの学生が「学問はコミュニケーション仮説」というトンデモを思いつきました。

「どれか一つではなく、いろんな色があるからいいよね!面白いよね!」的なノリで半分冗談で半分本気みたいなぼやきをつれづれちるままに。

いろんな「ことば」の捉え方

ども!見習い言語学徒として言葉の勉強を本格的にし始めたとしちる@ture_tiru)です。

「ことば」を学問的に捉えるといろんな立場の方々がいることが分かります。

比較言語学から一般言語学へ

例えば、伝統的な言語学はいろんな言葉を比較して分析しながら歴史的な変遷を追ってきました。語源とかそういうのです。

ですが、言語学者であり哲学者とされているソシュールという人物がことばが音によって伝達されているという出発点から一般言語学というものを提唱することで、従来の比較言語学から「ことばとはそもそもなんなのか?」という問を突き詰めていくようになりました。

一般言語学から生成文法へ

そうしたソシュールのアイディアから生まれたのが生成文法というもので、これは現在も存命のチョムスキーという方が提唱したもので「言語が通じるには人間に特有の能力がどこか(脳とか)に備わっているからに違いない!」と言い、人類が共通に持つであろう普遍文法を探し出そうというのが近代的な言語学の主流となっています。

生成文法に対立した認知言語学の登場

ですが、「そんなどんな言語にも共通する普遍文法なんてあるわけない。ことばとは人の認知能力(主にメタファー)によって生まれたものなんだ!」という認知言語学も誕生し、すでに登場から30年が経ち一つの言語学派を作っています。

「ことば」の哲学―ウィトゲンシュタイン

その他にも、「哲学がこれまで訳の分からないこと(神とか天使はいるのかとか)をことばを厳密に定義して否定してやろう」といった感じで、哲学を哲学で否定しようとしたウィトゲンシュタインという方もいます

ですが、この方が面白いのは自分で考えを後に撤回して、「いや、ことばとは厳密に定義して存在するのではなく、日常的な会話はあたかもスポーツでゲームをするなどして遊ぶようにできているのだと言い出し、これを言語ゲームと呼びます。

前者の考えを前期ウィトゲンシュタイン、後者の考えを後期ウィトゲンシュタインとして呼び分けてたりして、非常に面白い方です。

「ことば」を社会を基礎にして捉える―機能文法

ちなみにですが、僕が主に勉強しようとしているものが根拠に置いているのは(いろんな立場があるので、すべての人がそうじゃない)選択体系機能言語学というもので、「ことばというものは社会的な関係によって意味だけでなく文法も作られているんだ」という風に、ことばだけじゃなく社会的な関係を重視していたりします。

「ことばは生き物」

どの立場がどう正しいかとハッキリと証明できた立場の人はいません。

ですが、「ことばは生き物だ」と考えるのはある意味自然で面白い考えではないでしょうか?

話し手(立場、考え)によって、文脈(どんな状況で)によって、媒介(このブログ記事のように画面上を通して)によって、いろんなことばの使われ方があります

このブログでは不特定多数に向けて書いているので基本的には敬語や丁寧語を使って書きますし、論文といった厳密なものではないのでゆるく適当に書いてます。

学問とはコミュニケーションであり「宗教」?

そう考えていくと、絶対的な正しさを持てない今の学問においても、同じようにコミュニケーションがなされているとは言えないでしょうか?

もちろん、まだ明らかになっていない仮説(例えば、生成文法が前提とする普遍文法が人には備わっていること)が明らかになれば、その他の学問(認知言語学とか)で研究してきたことは間違っていたと言えることかと思います。

ですが、やっぱりまだ分かってないんですよね(笑)

だとしたら、そうしたそれぞれの前提を信じるということは一種の宗教とも言えるように思えます

宗教にも「弱い宗教」「強い宗教」があり、日本的な慣習として染みついたものは前者に、原理主義的な厳しい宗教は後者になります。

これは実は科学でもそういった側面があったりしてしまいます。

「科学ってなんだ?」と考えてきた人の歴史―科学哲学

「科学とはなにか?」ということを学問する、科学哲学というものがあります。

思ったより「科学」というものを定義するのは難しいようなんですよね…

ベーコンの帰納主義

例えば、ベーコンという人が帰納主義というものを唱えだしました。

「観測された事実や実験を繰り返し行い、たくさんのデータ(証拠)を集め、科学的な理論を作っていけばいいじゃない!それが科学だ!」

それがベーコンの主張です。

ですが、どこからデータを集めるかによって独りよがりな勝手な理論も科学ということができてしまうからです。例えば、「不吉でいびつな形をした雲が見つかる→地震が起こる」といったデータをいっぱい集めたら科学といってしまうようなエセ科学が出てきてしまったのです。

これが質が悪いことに、「数学でも一見正しいかのように思われる理論が実は間違ってました~」なんて見つかってしまったりして(非ユークリッド幾何学)、矛盾しているように見えて実は正しいというようなものは専門家と言えども見極めるのは難しいことに

ウィーン学団の論理実証主義

そんな中で救世主的に現れたのが論理実証主義です。

論理実証主義とは、ウィーン学団によって厳密な論理学に応じて「科学に妄想が含まれていないか?」ということを判定していくものでした。

「ウィーン学団に任せれば疑似科学は根絶できるのでは…!」

という期待があったものの、なんとどんな科学であろうと何かしらの「妄想」が含まれており、論理実証主義における厳密な科学なるものはないことが分かってしまったのです…!

「科学とはすべてに当てはまる絶対的で普遍的なものだ!!」

という点を見事にぶち壊した理論でもあります。

なんていったって誰一人「すべてを」確認したわけじゃないですからね…

ポパーの反証主義

そこで、ポパーという人が「どこか一つ間違っていることがあれば理論が成り立たなくなるという証拠を挙げられれば科学ではない!」という反証主義を唱えることによって、科学と疑似科学を分けようとしました。

つまり、「間違っているかもしれない」というリスクがあれば科学と言えるとしたのです。

ですが、ここで問題になるのが「反証不可能性」です。

科学はいろんな前提条件のもとに成り立ってますが、仮に反証できるデータがあったとしても、反証しようとする科学が持つ前提を確かめられなければ、反証することができないというものです。

つまり、前提を疑えばどこまでもどこまでも疑うことができ、反証を確かめる方法すらないという風になってしまいます。

とすると、どんな科学であれ反証不可能な「疑似科学」ということに…!

その他の科学哲学とか数学

科学哲学にはそのほかにもいろいろあります。

例えば、ものすごく極端な例で言えばファイヤ・アーベント方法論的虚無主義というものがあります。

一言でその考えを言うと、「科学の方法なんてなんでもいい」というものです。

気になって1年前に科学哲学を講義している教授に「今はどうなってるんですか?」と聞いたところ、実際今の理論ではファイヤ・アーベントの考えにはそぐわないところがあるということでこの本を勧められました。

まだ読んでません…

まぁ、でもその他にもいろいろな限界があったりします。

例えば、数学でも「0.9999999=1」とする立場と「0.9999999≠1」とする立場があるようです。

chaosですね…!

そんな感じで現在学部生の僕が勉強しながら思ったのは、

「なんだ、学問といっても信じるか信じないかの世界じゃん。」

ってこと。

今や哲学でもそうなっていますが、それはこちらにて「真理とはなにか?」に焦点を当てて語ってくれています。

学問といってもコミュニケーション仮説

そうやって考えていくと、学問と言えども「一種のコミュニケーション」ではないかと思えてくるのです。つまり、「ある特定の領域の研究者たちに研究の意義が通じるか通じないか」の世界になってくるということ。その際に、どの学問観を信じるかという「決断」をする必要があることになります。

すごい極端に言えばだけど、まだペーペーの学生がいざ研究していこうという際に立ちはだかるこれらの壁はデカすぎる…いろんな立場があると知ったって、選ぶ時には結局個人の「主観」で、つまり好みで選ばなければならない…このような状況下で何を持って「客観」と言い切れるのだろうか…

もちろん、ポパーが言うように「仮説と検証」を行うことこそが科学であり、また学問全体で言える基本方針でしょう。

ですが、人文学や社会科学ではなおさら、厳密な理論を組み立てることは難しく思えます。

と言っても、まったくもってそれらをする「意味」がないわけではなく、結局は批判的な相互コミュニケーションを行いながら学問していくしかないのでしょう。それに、初めから意味はあるのではなく与えるものだと思うのです。

昔、「地球を中心に世界は回っている」という考えが打ち砕かれたように新たな発見が僕らの常識を変えてくれるかもしれません。

僕はそんな時を心待ちにしながら、知的好奇心旺盛にわくわくとこれからの自分の研究に取り組んでいけたらと思います。

たぶん、それが学問(哲学=愛智=知を愛する)なのでしょう。

では~

 

 

ブログ管理人

としちる

日本サッカー協会に入るため筑波大学体育専門学群を目指すも、受験前に父親が逃亡し、やむなく部活を辞める。教材費と受験費を稼ぐためにバイトしながらの宅浪生活を2年間送った後、国際総合学類に入学。タイにて日本語指導と留学も経験。帰国後、「人から始まる学問の見える化」を旗印とした『入門学術メディア Share Study』を創設。運営サイトは4つ、記事執筆数は250以上、イベント運営に携わった数は50以上(17年8月現在)。最近、VALUも動かしてます。

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