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哲学

【哲学・教育学】苫野一徳さん講演『哲学的思考とは何か?』に参加したので概要と感想

投稿日:2017年7月22日 更新日:

ここ1・2年ほどずっとお会いしたいと思っていた方、それが苫野一徳さんでした。

Twitterのプロフィールに「学者」と名乗らず控えめにも「哲学・教育学徒」と名乗っていらっしゃりますので、タイトルにはそのまま使わせてもらいましたが…

さすがの講演内容だったので、備忘録的としても簡単に講演の概要と感想を書き記しておきたいと思います。

哲学的思考における初歩の初歩

哲学的思考をする上で重要なポイントは大きく3つあります。

  1. 「一般化のワナ」にひっかからない
  2. 「問い方のマジック」に陥らない
  3. 競技ディベートから「超ディベート(共通了解志向型対話)」へ

「一般化のワナ」にひっかからない

これはまとめると、自分の経験を過度に一般化させてそれを正しいものとするような前提をしかないというものです。

年をとるにつれて、自分自身の経験から語る「正しい」ことってありますよね?

「私の場合はこうだった」とか「あの時代は良かった」とかもその典型です。

特に、苫野さんは経営者ばかりが集まるイベントでの講演を依頼された時にはそんなステレオタイプを持っている人が多い場所だと思って、ちょっと困ってしまった経験があったとか。

ですが、ここぞとばかりに「一般化のワナ」という話を差し込んだことで、参加者からの質問という名の主張の前の枕詞として「これは一般化のワナかもしれませんがねぇ…」という文言が入ったそうです。

これって、つまりは「本質をえぐろうとする」哲学的思考の「概念」を手にしつつあったわけなんですよね

ついつい、自分が経験してきたことが「この世のすべて」みたいに思ってしまうことも時にあるかもしれません。

ですが、この「一般化のワナ」という言葉、哲学的に言うなら「概念」を手に入れることで、一歩身を引くことができるわけです。

「問い方のマジック」に陥らない

二つ目の「問い方のマジック」に陥ることもよくあることです。

例えば、「正義と悪」「個人と社会」の対立。

何かしらの問いや課題を与えられた際に、「どっちかが正しくて」「どっちかが間違っている」という風に考えてしまいがちです。

極端にいけば、どっちかをやっつけるまでの延々の戦いに陥るわけですが、それはもはや不毛な議論であることも現代の哲学ではある種の常識的な側面があるのです1)俗に言うポストモダン。「哲学は死んだ」と言及されるほどです。もちろん、一概に「真理」がないわけではありませんが、少なくとも何かを誰にもに対して疑いのない絶対的な根拠として主張することはできない、少なくとも矛盾があることが指摘されています。つまり、すべては何かしらの「前提」を持った上での論理になってしまっていて、その「前提」を疑うことも矛盾に陥ってしまうということが言われています。

ですが、いったん極端な問いかけや答えを求めるのではなくて、「どっちも」を含めて問に発展していくことが必要なのではないか

というのが現代的な哲学において求められている側面があるのではないかと僕も思います。

競技ディベートから「超ディベート(共通了解志向型対話)」へ

ディベートと聞くと、よく「相手を打ち負かす」という風に捉えられガチですよね。

ですが、それではいつまでも建設的な議論に発展しそうにありません。

相手のいいところがあっても打ち負かそうとしてしまうんですから。

それでは、ただ相手を非難するだけであって批判にはなりません。

自分にも思想や立場といった事情があるように相手にも思想や立場がある。

「絶対的な真理」を求められないなら、お互いの思想や立場を形作る「欲望・利害・関心」にまで遡る必要がある。

そして、「共通関心」を求めてよりよい「第3のアイディア(共通了解)」を生み出す。

 

それが、ただの競技ディベートではなく超ディベート(共通了解志向型対話)ということだそうです。

これって、完全に僕が言いたいことと一緒なんですよね。

大事なのは意見をゴリ押しするのではなく、すり合わせつつも新しい道を見つけることだと思うんです。

これを哲学的に言うと、弁証法という論法で特にこのすり合わせと新しい道を作ることをアウフヘーベン(止揚)といいます。

 

まとめるとこうなります。

  1. お互いの考え・思想・信念の底にある「欲望、関心」にまで遡り合う
  2. お互いに共有・納得できる「共通関心」を見出す
  3. 「共通関心」を満足させられる、よりよい「第3のアイデア」(共通了解)を生み出す(弁証法、アウフヘーベン)

本質観取

そして、哲学界隈では非常に忌み嫌われガチな「本質」を求めようと苫野さんは言います。

哲学といってもいろんな流派があるのですが、特にフランス哲学などで流行ったポストモダン的な哲学では、特にこの「反本質」的な志向性が強いんですね。

ですが、フランス哲学はちょっと癖がありまして「人間を置いていく」ような議論を展開しがちなんですよ。

そこで、啓蒙主義的な色があるドイツ哲学と対立する側面があるわけなのですが、苫野さんの議論では啓蒙的ではなく、あくまでも本質を見て取っていくことを志向しているのがよく伝わってきました。

 

ここで言う本質とは、こと。

別の言葉で置換えて説明しようとする辞書とは異なって、哲学的に普遍性のあるような、つまりはみんなが納得できるような共通了解を目指す

それが、本質観取だとのことです。

 

ですが、この点に関しては特に僕もまだまだ勉強不足なので一概にそう言い切れるのか分かりません。

これからも精進していきたいと思います。

まとめ

ここまで挙げてきた4つが苫野さんが哲学の初歩の初歩として掲げているものでした。

もちろん、あくまでも苫野さんが主張する「哲学」としてのあり方であって、全く異なるような考え方もこれまで哲学としてあるわけなので、一意見ではあると思います。

そういう余地を残してこれからも勉強を続けていきつつ、哲学的思考も深めていきたいと思うとても良い機会でした。

この講演の後半では苫野さんがずっと持ち続けていた問である「愛とは何か?」について、哲学的に考えていくために「エロティシズムとは何か?」「恋とは何か?」と話が進んでいきました。

ですが、これは苫野さんもまだまとめきれていないそうなので、割愛しようと思います。

余談と関連記事

講演終了後に、お話させて頂いて僕が運営している『入門学術メディア Share Study』での取材をさせて頂けないかとお願いしたところ、承諾して頂きました!熊本大学にまで飛んで取材してきます。

「人を中心にした学問の見える化」を目指して活動する「Share Study」では、この講演では語られなかった苫野さんが「愛」について考えるきっかけについて迫れればと思います!こうご期待!

入門学術メディア Share Study

また僕は以前に苫野一徳さんとその師匠である竹田青嗣さんの対談を読んでいたのですが、これもすごく面白かったです!

注釈   [ + ]

1. 俗に言うポストモダン。「哲学は死んだ」と言及されるほどです。もちろん、一概に「真理」がないわけではありませんが、少なくとも何かを誰にもに対して疑いのない絶対的な根拠として主張することはできない、少なくとも矛盾があることが指摘されています。つまり、すべては何かしらの「前提」を持った上での論理になってしまっていて、その「前提」を疑うことも矛盾に陥ってしまうということが言われています。



ブログ管理人

としちる

日本サッカー協会に入るため筑波大学体育専門学群を目指すも、受験前に父親が逃亡し、やむなく部活を辞める。教材費と受験費を稼ぐためにバイトしながらの宅浪生活を2年間送った後、国際総合学類に入学。タイにて日本語指導と留学も経験。帰国後、「人から始まる学問の見える化」を旗印とした『入門学術メディア Share Study』を創設。運営サイトは4つ、記事執筆数は250以上、イベント運営に携わった数は50以上(17年8月現在)。最近、VALUも動かしてます。

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