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メディアウォッチ

メディア界隈でポジショントークするやつが多過ぎるからその対策と理論を少々

投稿日:2016年4月17日 更新日:

なんだかなー。ブログを書き始めて(正確には再開して)早4ヵ月が経ったのだけど、書くためにもブログを読むことが増えた。

はてなブックマークも知らずに「メディアに興味あります!」なんて言ってた自分が今では超恥ずかしいのだけど、今まで触れたことが少なかった情報を数多くキャッチするようになって改めて感じたのが、

「ポジショントークするやつが多過ぎやしないか?」

ってこと。

Instagram有名人による華麗なるポジショントーク

特にここ最近で鼻についたのがこの記事だった。

思わずこうコメントしてしまった。

まぁ、SEO対策やらで必ずしも検索上位が良質な情報とは限らない
そもそも「良質な情報」とひとえに言っても、何を持って良質となすかは受け取る側によって異なるし、それをアルゴリズムで判断するなんてそう簡単にできることじゃない

今のところはGoogleの基準によってある程度は操作可能というか、工夫して上位表示することはできる。

ただ、今後は改善されていくだろうことは人工知能の発達によって期待していいだろうというかお願いしますという感じだ。

と言っても、ポストムーアの法則を見つけていかないと情報技術革新にも限界がとうに見えてしまうみたいだから、ただのへっぽこガジェット好きとしては期待したいとしかいえない。

とにもかくにも、この記事で言っている「Google検索は恣意的でよりリアルな情報はInstagram」というのはおかしい。

新聞による鮮やかなポジショントーク

今月は情報収集をテーマにしていろいろと勉強している。
そんな時に新聞がまたやらかしたことを知った。

入学式における東大総長の式辞を新聞社にとって都合のいい「新聞を読もう」というメッセージに変換して報道した。報道機関がこれではただ信用を失うだけだろうと思うのは僕だけじゃないと思う。
アメリカの新聞のように、自社の主義・主張を隠さず報道するのはそれはそれでハッキリしてていい。「新聞社」と「通信社」がしっかりと分業して、一般ユーザーもそれを認知できれば「新聞社」が中途半端に「通信社」を装う必要はないだろう。

たぶん…知ったかだったらごめんなさい…

そもそも、完璧な中立などありはしないのだから。

と、この本を読んだ時に思ったが、2008年に出版とやや古いし、読んだのも3年前でそれ以上のリサーチはできてないのが現状のため、「そうしていくべきだ!」と声高に叫ぶこと控えておく。

とにもかくにも、このnetgeekの記事を読む上で注意したいのは新聞の誤報を報じるはずが「疑って読もう」という誤報をこの記事自体も繰り返しているところだ

総長の式辞を読めば、「疑って読もう」ではなく「知のプロフェッショナルになるためにも、記事のヘッドラインだけに目を通すのではなく、本文を読んで思考すること、海外の新聞にも目を通すことで自身や自身を取り巻く世界の現状を相対化しよう」だと分かるのに。

この式辞も、東大が総合大学の中では世界に先駆けて工学を取り入れたことや、学問が細分化・専門化している現状を述べた上で、東大の大きな特徴である「教養教育」の意義の一つである「相対化」を新入生に向けて語ったものだ。

ちゃんと背景があるし、この語りにも「東大の総長」という社会的立ち位置が明確に表れている
【参考】

平成28年度東京大学学部入学式 総長式辞 | 東京大学

※ わざと狙ったのかなと思わなくもないが…

ブロガーも自分の立ち位置で語るだけの人が多すぎる

冒頭で書いたように、ブロガーの人、特にはてなブックマーク上に頻繁に表示される一部の人は攻撃的な言葉であったり、複雑な問題を短絡的に編んで表現する人が多い

としぞう 心の叫び

そんな単純じゃないだろこの世界!
いたずらにあおったって信頼落としたり、余計な議論を生むだけじゃん!!

自身のブログ記事や行為に対して批判が集まったかと思えば、「この世界には批判があふれているから肯定するのが大事だ」と言っている人がいたが、いくらなんでもそれは自分を擁護しようとするポジショントークに見えるしまう。さすがに。

確かに、批判をするのは簡単だ。改善点など示さずともおかしなところがあると文句を言えばいい。文句なんて解釈ででっちあげることも可能だ。

だが、果たしてそれは「批判」なんだろうか?
思うに、それは批判というよりも「非難」なんじゃなかろうか

批判というものはただ非難をするのではなく、相手の主義・主張や行動に対する方法について理解した上で足りないところがあれば指摘するというものなんじゃなかろうか
つまり、「お前は間違っている!」と詰め寄るのではなく「ここは正しいのか?こうしたらどうだろうか?」と対話をすることのはずだ。

それが本来の議論だろう。
学問チックな言葉を使えばおそらく弁証法的に止揚していくことだ。

ただ、弁証法はヘーゲルが編み出した詭弁だという意見を見てから慎重にこの言葉は使いたいと思うようになったので、詳しくは突っ込まないしこれが唯一絶対の答えとは言わない。

とにもかくにも、建設的な議論をするためには下手に自己を守るのではなく、きちんと自身の考えについて言葉を尽くして論じ、至らない点があると分かれば反省していく必要があるんじゃないか?

ブログに限らず、ネットメディアでは注目を浴びるために、現状を単純化し、乱暴な論理を振りかざしては保身に走る人が目立つように思う。

そもそもポジショントークってなんだ?

ここまで勢いに任せて書きつつ、「ポジショントーク」ってそもそもなんなのかきちんと調べたことがなかった。

 株式市場や為替市場にポジションを持つ市場関係者が、自分の利益になるように相場を誘導するために、根拠の不確かな情報を流すこと。
 自分の立場に有利になるような発言。
引用: コトバンク

の意味だと思ってたら、元は金融で使われている用語だとは正直ついこの間まで知らなかった。知らぬ間に受け入れ使ってしまっている言葉は数多くあるから気を付けたい…

みんなポジションを持っている-批判的談話分析を参考に

だが、こんなとある増田の投稿を見つけた。

増田が何って人は「はてな 増田 とは」とかでググって。

ちょいちょい妄想?が入るから少し読みにくくなってるが言わんとすることは分かる。

確かにすべての人は何かしらのポジションに立っている。
そもそも生まれた時から、特定の両親のもと、つまり最小の社会に埋め込まれたのが人の始まりだ。

本質的な平等なんてものはジョン・ロックが言ったような「無知のヴェール」の状態でしかないのかもしれない。というかないと「今のところ」は思っている。

た、たぶん…まだ勉強中…
ちなみにここで言っているのは無知のヴェールに基づいて「正義」を考えるというものではなくて、その「原初の状態(=無知のヴェール)」の時にしか真なる平等は実現していないという点のみです…
そんな真なるものがあるかどうかはまだ分からないけど…

そういえば現在、自分が勉強している「批判的談話分析」というものも基本的には分析者自身の主義・主張を全面に出して行うものだった

そんな主義・主張をあからさまに述べるのが学問になるのかといったらいろいろ批判されているのだけど、確かに「完璧な客観などありえるのだろうか?」というとないんじゃなかろうかと思っている。

 

 

要するに、みんな何かしらの立場から離れられるわけじゃないんだから「ポジショントークだ」と揶揄することもまたおかしなことなのかもしれないということだ

対策:外在的・内在的な批判精神を持つ

思いつくがままに書いてみたが、この文章だって自分が持つ文脈(歴史、環境、思想、主義・主張、気分、食事、人間関係 etc.)によって生み出されたものだった

そんなに偉そうなことは言えそうにない。

どんな発言であれ時に自分に対するブーメランとなって返ってくる。

そこに自覚的でありたい。
そんな中、じゃあ、どうすればいいのかと言えば「外在的・内在的な批判精神」を持つしかないんじゃないかって。

外在的ってのは受け取った情報や特定の誰かに対して批判的に接すること。
つまり、まずは疑ってかかるということ

内在的ってのは、外在的な批判をしている自分自身に対しても批判的な目線を投げかけること。人間は完璧じゃない。もし、ありとあらゆるものを理解して絶対的な批判、つまり内在的な批判精神なしに批判することができる人がいるのならばそれはきっと「ラプラスの悪魔」にだってなれるだろう。

自分自身、何を信じて何を疑うのかを常に問いかけていきたい。それしかできない。
それがいわゆる「情報リテラシー」であり「無知の知」なのだと思う。

これまでのすべてを疑いつつ、それでもどこか信じて暫定的に前に進むしかない。

メディアは現実を構築する -バフチンの対話概念

メディアによる3つの要素、

  1. 議題設定機能
  2. 沈黙の螺旋
  3. 培養効果

を挙げ、それらの特徴によって「我々の思考は無意識のうちにマスコミの影響を受けている」と述べたのが野村一夫氏著『未熟者の天下』だ。

 

また、バフチンの「ポリフォニー(声性)概念」というものがある。

この概念は対話概念とも呼ばれ、

私たちの意見や価値観は自分の所属する共同体の影響を受けて形成されており、個人の中には、自分のオリジナルな考えというものは存在せず、代わりに共同体が生み出した考え、すなわち「社会の声」がいくつも存在している。

 

というものだ。

メディアが現実を構築する例として、第二次世界大戦当時における報道を思い返せば分かりやすいかもしれない。少なからずメディアは部分的に人々の生活、考えに影響を与えている。

と言っても、これも僕の先輩が書いた卒業論文から知ったもので、厳密に研究したわけでも知識があるわけでもない。

だから、これも声高に主張することはできない。

が、昨今は「マスメディア対一般」という二項対立的な図式から、SNSの普及に伴いより複雑性が増すようになった

テレビが言ってたからというより、SNS等を介して「自分のよく知っている誰々が言ったから」というように情報を得る可能性が高まった。

いわゆるメディアにおける権力の分散が進んでいるのだと思うがこれはこれで「何をどう信じるのか?」「それは正しいのか?」という分析を行うことが難しくなっているように思う

昨今、主にブログ界隈で騒がれてた「サロン問題」「note問題」などもこの部類に入ってくるような気がする。

対策としては先ほど挙げた通りだが、そうす「べき」ということを主張するその正当性はどこにあるのかというと難しい

 

そこで以下のことも付け加えておきたい。

「べき」という主張の補強:「自分≒世界」

「自分とは誰か?」と考えていった時、パフチンの多声性概念が言うように、「自分」という存在は「他者」ありきだし、その他者にも社会・歴史・文化といったさまざまな要素があって、突き詰めて考えると「自分≒世界」なのではないか?と思うようになった。

きっかけはこの本。

だとすれば、趣種の問題もいわゆる自分「だけ」の範疇にとどまらずに対処すべきだと言えるのかもしれない。

基本的には、まずは個々人の自由を尊重していくべきだとは思うのだけど詳しくはここら辺の記事で軽く触れた苫野一徳さんの「自由の相互承認」などで。

どこまでその正当性があるのかはまだ勉強中だけど、とりあえず暫定的にはこんな感じ。書きすぎたり、書かなかったりな部分はあるけど、今回はこの辺で。

終わり。

ブログ管理人

としちる

日本サッカー協会に入るため筑波大学体育専門学群を目指すも、受験前に父親が逃亡し、やむなく部活を辞める。教材費と受験費を稼ぐためにバイトしながらの宅浪生活を2年間送った後、国際総合学類に入学。タイにて日本語指導と留学も経験。帰国後、「人から始まる学問の見える化」を旗印とした『入門学術メディア Share Study』を創設。運営サイトは4つ、記事執筆数は250以上、イベント運営に携わった数は50以上(17年8月現在)。最近、VALUも動かしてます。

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