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【映画感想】沈黙―タイトルに込められた「沈黙」の意味とは【ネタバレあり】

投稿日:2017年2月15日 更新日:

マーティン・スコセッシ監督が遠藤周作の原作である『沈黙』を映画化したいと思いを抱いてから、28年の時を越え、ついに完成した映画。昨今のマイブームである「事前情報一切なし」で鑑賞してきました!ネタバレ含む簡単なあらすじと感想、そしてタイトルに込められたさまざまな「沈黙」について考察!

映画『沈黙』あらすじ

17世紀、江戸初期。幕府による激しいキリシタン弾圧下の長崎。日本で捕えられ棄教 (信仰を捨てる事)したとされる高名な宣教師フェレイラを追い、弟子のロドリゴとガルペは 日本人キチジローの手引きでマカオから長崎へと潜入する。

日本にたどりついた彼らは想像を絶する光景に驚愕しつつも、その中で弾圧を逃れた“隠れキリシタン”と呼ばれる日本人らと出会う。それも束の間、幕府の取締りは厳しさを増し、キチジローの裏切りにより遂にロドリゴらも囚われの身に。頑ななロドリゴに対し、長崎奉行の 井上筑後守は「お前のせいでキリシタンどもが苦しむのだ」と棄教を迫る。そして次々と犠牲になる人々―

守るべきは大いなる信念か、目の前の弱々しい命か。心に迷いが生じた事でわかった、強いと疑わなかった自分自身の弱さ。追い詰められた彼の決断とは―

引用:『沈黙』公式サイト

主な登場人物

セバスチャン・ロドリゴ神父

本作の主人公。教父であるフェデイラ神父の行方を知るため、弾圧されている日本人キリシタンを救い布教するために日本へ向かう。奉行所に捕らえられてからも頑なに信仰を貫くが、最後には棄教し、幕府によるキリシタン弾圧に協力する。

フランシス・ガルペ神父

ロドリゴ神父と共に、フェレイラ神父の行方を追ってポルトガルから日本に向かった神父。ロドリゴとともに滞在していた村に追手が迫ってきたことでロドリゴと別れる。奉行所によって捉えられ、処刑される信徒を追いかけ海にて溺死する。

クリストヴァン・フェレイラ神父

ロドリゴとガルペの教父。日本で過酷な拷問により棄教したとの報告がイエズス会にもたらされる。消息が不明とされていたが、作中最後に登場。ロドリゴに日本にはキリスト教は根付かないと説得し、棄教を迫る。

イチジロー

ロドリゴとガルペを日本へと案内した。自身もキリシタンだが、踏絵を家族全員で試された際に唯一自分だけが踏絵を断行し、生き延びる。罪の意識をロドリゴに懺悔し、ロドリゴと行動を共にするも生きるためにロドリゴを裏切り奉行所に明け渡す。しつこくロドリゴに付きまとうも、最終的にはロドリゴの使用人となるが、身につけていた十字架が踏絵の際に見つかり連行される。

井上筑後守

長崎奉行所の上様。苦しくともすぐに死ぬことができない「穴吊り」という拷問方法を考案した人物。日本にキリスト教は根付かないことをロドリゴに説得するも、ロドリゴにやや好かれるほど知的で温厚な人物。

通詞

かつてキリシタンだったが、宣教師の傲慢な考え方や日本人への差別意識などをロドリゴに撒き散らすなど、棄教した経緯が示唆される。

映画『沈黙』の感想―おすすめ度:★★★★

テーマとして「信仰」を問うという重いものであり、かつ上映時間が159分もあるのが映画『沈黙』。長丁場を覚悟して観に行きましたが、終わってみればあっという間だと感じさせるほど濃密でありながら飽きさせないストーリー構成でした!

当然ながら最初にタイトルが出るわけですが、そこでも映画が始まってからしばらく虫の声が響くだけで画面には何も映し出されません。音が鳴り止んだ時、ついにタイトルが映し出されます。その際には無音。

そう、導入から「沈黙」が表現されているのです…!

これは非常に印象的でした。導入の仕方で、この映画に魅せられてしまったと言っても過言ではありません。

実は劇中でも、自然の音のみでほぼBGMが使われていません。物語は淡々と進むも、個人的には飽きずに最後まで楽しむことができました。

普通、これだけの上映時間で内容も重い中、なぜこれだけ没頭してみることができたのか考えてみたところ、ずばり考察のしがいが随所にあったかのように思っています。

さまざまな「沈黙」

音の沈黙

冒頭のタイトルインから「沈黙」が表現され、かつ映画全体を通してもBGMは「自然の音」という「沈黙」が、さらにはエンディングも歌が流れることなく「沈黙」が演出されるという徹底ぶり。

昨今、大学の「現代文化論」という授業にて”The Other Guys”や”BAD MOMS”といった映画を見ており、これらはいわゆるアメリカンムービー―火花飛び散るような派手な演出、アメリカンジョーク、俗に言うブラックジョークの類―だったので、この映画『沈黙』があまりにも対照的でとてもアメリカ映画とは思えないものと感じました。

「もう、これ日本映画でしょ!」

と思うくらい、日本らしさをしっかりと取り入れてくれた作品です。

よくあるハリウッドムービーの「てきとうな」日本ではありません!

さて、そんな『沈黙』なわけですが、「なにが『沈黙』なのか?」を鑑賞しながら考えるポイントが随所にあったので飽きずに楽しめたように思っています。

師フェレイラの「沈黙」

冒頭ではフェレイラ神父がすでに捕まり、仲間が拷問にかけられるところから始まります。しかし、フェデイラ神父はその様子を遠くから見せられているだけ。そして、場面はポルトガルにいる弟子のロドリゴとガルベへと移ってしまいます。そこでは、師フェデイラが棄教し、日本人の妻と暮らしているとの報告がなされるわけですが、そのことを信じることができない二人。

「自分の目でどうしても確かめに行きたい、どんな危険があったとしても!」

との強い意志で一度は止められるも日本に向かうことになりましたが、それもこれも師フェレイラを探し、日本に住むキリシタンを救うためでした。

しかし、なかなか姿を現さないフェデイラ。登場したのはロドリゴが捕まった後の終盤にてでした。

観客としてなんとなく先行きは分かってくるわけですが、はるばる海を越えて日本にまでやってきた二人の弟子にとっては、フェデイラの安否が分からないという不安と情報もなかなか集まらない焦燥感が伝わってきます。

時々、ロドリゴとガルベは意見を衝突しあわせることもあるわけですが、それもこれもフェデイラの「沈黙」が元はといえばの原因です。

見えない不安や恐怖が見事にフェデイラの「沈黙」で表現されているのはさすがでした。

日本人キリシタンへの沈黙

直接的に描かれることは少ないながらも、ときどき演出されるロドリゴやガルベが感じる日本人キリシタンへの違和感。

例えば、「○ねばみんな天国に行けるんだから苦楽からも開放される」との声に当惑するシーンがあります。

しかし、キリスト教で言えば天国といえばただ単に苦楽がなくなる理想郷というよりは神が統治する世界なわけです。つまり、誰でもかんでもキリスト教信者なら天国に行けるとかそういうわけではないし、そもそも「天国」という概念自体が統一的な見解を持たれていいるわけではないわけです。

劇中で○後の世界として天国がどのように描かれているかの描写はないので分からないのですが、少なくともガルベが「それは違う」と日本人キリシタンに言い返す場面から、少なくともおかしな理解が蔓延していると二人の神父は思っていたことが推察されます。

しかし、そのことを二人は決して表立って言うことはありませんでした。あくまで「沈黙」を貫き通します。そして、キリスト教が如何に素晴らしいかについて語りはするのですが、日本で起きている現状への違和感については口を出しません。

そのことについて言及をしたのが、通詞と井上様でした。

「この国はすべてのものを腐らせていく沼だ」

劇中で印象に残るこのセリフ。別にただキリスト教を否定しようとしたのではありません。あくまで日本という国土において、権威として利用される宗教に警戒心を抱いたのはあの時代においてはさも当然のことだったでしょう。異なる考えを持つ者同士はときにぶつかりあいます。それを国を統治する政治家が鑑みたときに、放っておくのは賢い選択とはいえない側面があるのもまた事実でしょう。

そうした立場をそれぞれ俯瞰して見たときに、実際に起きている現実の差異や複雑さに目が行きます。

そこにロドリゴは「沈黙」し続けているのでした。

神の沈黙

この作品における「沈黙」の意味として劇中でも指摘されたように、分かりやすいのがこの神の沈黙でしょう。

フェデイラ、ロドリゴ、ガルベ神父がいくら悲惨な目に会おうとも一向に神は姿を見せません。

それは、日本人キリシタンも同じです。

やがて、ロドリゴは水面に映る自らの姿とイエス・キリストを重ねていきます。

物語終盤、「穴釣り」の拷問にかけられている仲間を救うためには自らが踏絵を断行し棄教することが求められるロドリゴに、内なる神が語りかけます。

「踏絵を踏むといい。私は沈黙していたのではなく、一緒に苦しむために生まれてきたのだ。」

すみません、ちょっとあやふやですがこのようにある意味で「神自身」が棄教を促すのでした。

この神の不在問題はさまざまなところで取りだたされますよね。例えば、海外ドラマ『スーパーナチュラル』で天使同士で争いが繰り広げられる中でそれを調停できる立場にあるはずの神は出てきません。

いやね、この「神」という存在の嫌らしさはここにあると思うんですよ!だって、結局のところいるかどうかさえも分からないんですから。

いわゆる「不可知論」という立場を取らざるを得ないと思うのですが、信仰の自由はあるとは言え、ロドリゴやガルベを始めとした彼らの前でまざまざと繰り広げられた現実に対処するのはただ黙って「神」を信じるしかないのでしょうか?

そんなものにすがって頼れるのはある意味では「強い人間」しかいないんじゃないかってことが「キチジロー」を通して描かれていくのがこの『沈黙』という映画の魅力だと思いました。

キチジローの沈黙

キチジローの行動にはさまざまな「沈黙」が現れていました。

  • 最初はロドリゴとガルベを置いていったかのように思えた「沈黙」
  • 素性の分からないものとして怪しまれる「沈黙」
  • ロドリゴを裏切りながらも必死についてきながら謝ろうとする理由の「沈黙」

この作品を飽きさせないものにしたのは、ひとえに「キチジロー」という存在が醸し出す世界観にあったように思いました。

そんなキチジローは作中で「生き延びるための”弱さ”」を貫いて描かれる人物です。生き延びるために踏絵を断行し家族を裏切り、奉行所に捕まらないためにロドリゴを裏切り、なおかつ最後の最後まで彼はキリスト教を信じ続けます。己が身に付けた聖母マリアの肖像。最終的に奉行所に見つかり、どこかへ連行されていくのが彼の幕引きでした。

彼のような「弱い」人間に対し、最初は救いの手を差し伸べようとしたロドリゴも裏切られた後には「ついてくるな!」と怒号を撒き散らします。

ロドリゴが主人公ありながらも、どこかキチジローという存在に引っ張られつつ物語が進んでいるように思うと、裏の主人公だったかのようです。

最後に

映画『沈黙』の監督であるスコセッシはこのように語っているそうです。

「キチジローのような弱い存在をはじき出すのではなく、受け入れていく社会を」と。「いま最も危険なのは若い世代です。彼らは“勝者がすべてを勝ち取っていく”という部分しか見ていない。それが世界のすべてだと思ってはいけないのです。あらゆる者が強くあることはできません。『キチジローのような弱者の生きる場所はあるのか?』と問い続けることが必要なのです」

引用:”神の沈黙”は何を語るのか?『沈黙 サイレンス』にこめたスコセッシ監督の想いとは?

どこか重たい内容、テーマであるのに関わらず、必ずしも冷たさばかりがギラつくものに思わない理由は、このような監督の姿勢にあったのかもしれません!

監督の意向としては「弱者にも救済を」というものでしたが、それはきっとスコセッシ監督がカトリックの信者としてあることに所以があるように思えました。

しかし、それとは真逆の方向に現実の問題が起こりつつあるのもまた事実です。

例えば、アメリカ大統領選挙の結果を受けて流行った”Post-truth”という言葉がその象徴でしょう。

ことばの分析を通して世にはびこるような社会的不平等にメスを入れていくことを専門分野として学ぶ者として、考えさせられる映画でした。

おすすめです!



ブログ管理人

としちる

日本サッカー協会に入るため筑波大学体育専門学群を目指すも、受験前に父親が逃亡し、やむなく部活を辞める。教材費と受験費を稼ぐためにバイトしながらの宅浪生活を2年間送った後、国際総合学類に入学。タイにて日本語指導と留学も経験。帰国後、「人から始まる学問の見える化」を旗印とした『入門学術メディア Share Study』を創設。運営サイトは4つ、記事執筆数は250以上、イベント運営に携わった数は50以上(17年8月現在)。最近、VALUも動かしてます。

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