これからの教養を考える としちるのブログ

哲学

生きる上で避けることのできない哲学の意義を問い直す―よりよく生きるための哲学

投稿日:2015年2月17日 更新日:

『「生きる」上で「教養」なんて必要ないからそんなもの押し付けないでくれよ』

なーんて類の言葉を聞くことがあります。

「そんな理想論を語る前に現実を見ようぜ?」

といったリアリスト的な発言ですね。

 

僕は「教養」や「哲学」を学ぶことの方が現実的だと思うため、こうした意見に反論してみたいと思います。生きる上で「教養」は、「哲学」は必要なのでしょうか?

 

これらについて考える上で前提として明確にしておくべきものがあります。それは、「生きる」、「哲学」といったそれぞれの定義です。

 

言葉の定義に関する認識が間違っているとそもそも議論は話し合いにならず、平行線をたどってしまうためです。こうした言葉は行為を表すものではなく、抽象的な言葉のため思考する際に注意しなければいけないものと言えるでしょう。

「生きる」ことの目的ってなんやろか?

なんにせよ「目的」を持つことは大事ですよね?行為には何かしらの目的とする対象があります。

 

生きるという抽象的な行為にはどのような目的があるのでしょうか?まず、自分が好きで行なっていることを思い浮かべ、そこからなぜそのような行為をするのかということをもっと掘り下げてみるとしましょう。

 

その好きなことを行う「目的」はなんなのでしょうか?

 

分かりやすくするために僕の例をあげたいと思います。

サッカーが好きだったので、なぜサッカーをするのか考えてみたところ、僕がサッカーを監督やコーチに教わってきたようにいつか自分もサッカーを教える立場になりたいと考えていることに気づきました。

 

では、なぜそのような立場になりたいと思っていたのでしょうか?自分の得た知識や経験を人に話すことが好きだった、というのがその奥底にありました。さらに考えてみると、なぜ話すことが好きだったのでしょうか?このように行為の目的を突き詰めていくとそこには「幸せ」になるためという底にぶち当たりました。

 

そうです。「幸せ」になりたかったんです。笑

けっこー胡散臭くなってきてしまいました。笑

 

しかし、胡散臭くてもあやふやにしないでしっかりと向き合って考えていきたいと思います!

 

まとめると、なぜ生きるのかという問いには「幸せ」になるという目的があったのです。つまり、生きるために必要なのは自分を「幸せ」にしてくれるものです。

 

ここでさらなる疑問が浮上してきました。

「教養」や「哲学」は自分のことを「幸せ」にしてくれるのでしょうか?

このことを考えるためには、「幸せ」とは何かについて明確にしなければなりませんね。

「幸せ」ってなんやねん!人それぞれじゃないの?

確かにその通りなんですよね。笑

けど、その見方はかなり一面的ではないでしょうか?

 

「幸せ」には二種類あると考えます。

①相対的な幸せ

②絶対的な幸せ

「相対的」とは、すごく簡単に言うと比べることです。「絶対的」とは、比べることができないということです。

相対的な幸せとは?

相対的な幸せにも二種類あると思います。

①他人と比べた幸せ

②自分と比べた幸せ

①の「他人と比べた幸せ」ですが、もしこの「幸せ」を主な基準にしてしまうとかなり危ういと思います。

なぜかというと、「他人」はコントロールできないからです。基本的に、変わることができるのは自分だけです。それは、おそらく間違いありません。

 

発言や行為によって、他人を変えたとしても、変わったのはその人自身だからです。変えることができるのは自分だけ。これはかなり大事な考え方です。

 

②の「自分と比べた幸せ」とはなんでしょうか?

これもさらに二種類に分けられると思います。

①「過去」の自分と比べた幸せ

②「今」の自分と比べた幸せ

ややこしくなってきてしまいました。笑

 

①の「過去」の自分と比べた幸せとは、

「昨日よりは今日はいいことがあって幸せだ。」

とか

「昔よりは成長できた。」

といった意味での「幸せ」です。

 

しかし、この見方というのは時間軸が数直的に、つまり一直線上にあるという時間感覚によってるものです。

 

こんな感じです。

 

しかし、そうではないと言った哲学者がかつていました。マルティン・ハイデガーです。「存在と時間」という本を書いた人です。

 

ものすごーく端的に言うと、「時というものは『今』しかない。」と言った人です。

 

そうすると、「存在」も「今」しかないということになります。「存在」ほど不思議なものはないというのが「存在」の謎です。理由がそれ以上、深堀できないからです。

 

だとすると、「今」しかない「幸せ」ってなんなのでしょうか?

「今」しかないなら、「今」の自分が「幸せ」だと思うことをすればいいのではないでしょうか?

 

「ちょっと待て!それって好き勝手していいってこと?」

という声が聞こえます。笑

 

実はここでまた新たな問いが生まれてきました。

「自分」って誰…?

ということです。

この「自分」については後ほどまた迫ります!

 

ここまでは相対的な幸せについて遡ってみました。

では、絶対的な幸せとはなんなのでしょうか?

絶対的な幸せとは?

これに関してはそもそも絶対的なものがあるのかという難しい問題があります。

 

結局のところ、「あるがまま」でいいということなのではないかと考えています。「運命」とか「宿命」みたいな感じです。

 

いろいろ考えた末に時々、こんな風に思っています。

「善」と「悪」

「戦争」と「平和」

「存在」と「無」

これらは比較的分かりやすい対概念だと思いますが、言葉ではいくらでも言えてしまいます。

 

一方があるから、もう一方があるのです。どちらも欠かすことはできません。いわゆる、「タオ」ですね。

 

どんなことにも、どんな人にも「存在」する意味はあるんじゃないでしょうか?意味があるというよりは、与えることができるという感じです。

 

突き詰めれば生きていることに何かしらの意味があるわけではありません。ですが、「存在」していることはひとまず確かです!それだけでこの世界を形作る一員になっている。

 

ということは、相対的に優れている優れていないという議論をしようと結局はどちらも比較するために必要な「存在」というわけです。

それが、この記事で言う「絶対的な幸せ」です。では、再び幸せを感じる「自分」とはなんなのか考えてみましょう。

「自分」は「自分」としか言いようがないのでは?

それもそうなんですけど、もう少し掘り下げてみます。

 

「自分」とは一体どういう存在として生まれ、作り上げられてきたのでしょうか?

まず、「出自」ですね。どこに生まれてくるのかということは、本人には選ぶことができないと思います。

 

生まれて来た時点で、まず「家族」という「社会」に埋め込まれてしまいます

埋め込まれるというのがポイントですね。もちろん、家族が誰かすら分からないという状態で生まれてきた人もいると思いますが、(ジャングルという野生で動物と共に育った人もかつていました)基本的にどこに生まれるかなんて選びようがありませんよね

 

乱暴な言い方かとは思いますが、このような原初的な状態を無知のヴェールと表現したのがジョン・ロールズという哲学者です。(彼が説きたかったこととは僕のとは違う見方です。)

 

大なり小なり、そうして生まれてきた環境下において「家族」を初めとした様々な人や出来事に出会い、経験し、影響を受け、成長してきたと言えるのではないでしょうか?

そこでもっと考えてみると、「自分」の親にもまた「親」がいるわけで、そのまた「親」にも「親」がいるというように無限ループのようにつながっていくわけですね。「友だち」や「知人」に対しても同じようなことが言えます。

 

そう考えるとですね。「自分」は「自分」でしかない。

「他者」は「自分」とは無関係な存在だと言い切ることが果たしてできるのでしょうか?

僕は「できない」と思います。

 

これは単に「自分」が生きてきた中で出会ってきた人々だけが「無関係」なのではありません。さっき「親」の「親」と考えた通り、例えこの世にはいない人だとしてもこのことは歴史的にも「無関係」ではないということです。

 

そう、生まれてきた瞬間に「埋め込まれて」しまったのです。「自分」が所属する「家族」、「地域」、「国」といった社会にです。だから、本質的に「自分」という存在は「他者」と無関係ではない。もっと言うと「自分」と「他者」は異質なものではない。

 

もっとセンセーショナルな言い方をすると

「世界は自分と同一なものである。」

ということです。

 

すごく大げさな感じになってしまいましたが、今は暫定的にこんな風に考えています。実際にその通りだと言ってくれた哲学者にも会いました。

結局のところ「哲学」の意義とは?

これまで書いてきたことがいわゆる哲学的に考えるという営みの片鱗でした。そういった「行為」は私たちを「幸せ」にはしてくれず、「生きる」上では必要のないものなのでしょうか?

 

冒頭で述べたように僕はそうは思いません。まだ、明確には述べていない「生きる」について僕なりの見解を述べたいと思いますが、その前に「意味」についても言及したいと思います。

「意味」あるものなんてない?

結論を言うと、「生きる」ことそれ自体に意味なんてないと思ってます。確かに、「生きる」ことの目的は「幸せ」になるためと述べましたが、「目的」と「意味」は違います

 

よくよく考えてみるとそんなの当たり前なんですよね。

「私は『これこれ』のために生まれ、生きてきた。」

なんて後付けでしかありません。

 

偶発的な環境下に強制的に置かれ(社会に埋め込まれ)、その中でただ意味を与えたにすぎません。

 

そう、ポイントはここです。意味とは、「与える」ものなんです。言葉も同じです。物が先にあるというよりは、便利にするために、つまり区別するために名前が先に付けられたのだと考えます。

(いわゆる普遍論争では、暫定的に唯名論派だということですね)

 

下のこの本を読んでそう思いました。

「生きる」と「よりよく生きる」

「生きる」ことそれ自体に普遍的な意味はないとすると、ではそれにどのような「意味」を与えるかが重要になってくるのではないでしょうか?

 

それが「教養」に求められる「品位」や「道徳」といった「人間性」に関わってくるのです。そして、本質的な意味においての「自分」は「他者」、もっと大きく言えば「世界」と同一だと述べたことにもつながってきます。

 

ただ「生きる」のであれば、それはブロイラーと同じです。ブロイラーとは、食肉用に改良し、飼育するニワトリのことです。何も考えることはできず、「生きる」姿がそこには投影されているのではないでしょうか?このことは「生きるってなんやろか?」という本の中で、指摘されています。

 

私たちは「人間」です。

人間とは、社会的連帯動物です。

二足歩行をしたことで、脳が発達し、知恵を身につけ、協力し生きてきました。

一人で生きるのではなく、共同し生きることを選んできた生き物なのです。

世界三大心理学者の一人である、アドラーも「人間にとって『幸せ』とは社会的連帯感にある。」と言っていたそうです。

では、どんな意味を持って「生きる」のが良いのでしょうか?

それが、「よりよく生きる」ということです。

なぜなら、「現状維持」というものはありえず絶えず「変化」していきます。

どちらにしろ、「前進する」か「後退する」かしかないのです。

ただでさえ、今の世の中は技術が発展し、圧倒的速度で「変化」をし続けています。

そんな時に、これほど学問や技術が発展したにも関わらず、そこに関心を持たないというのはかなり危険な状態ではないでしょうか?

それこそ、不確かなものに踊らされ「自分」が何者かすら分からずに、「ただ」生きてしまうのです。

ですから、私たちは「人間」の持った最大の武器である「考える」ということをし続けなければならないでしょう。

そこに「哲学」の意義があるのです。

しかし、「哲学」が全てではありません。

今の世の中には、本当に多面的なものの見方があります。

「『分からない』ことを『分かる』ことが『教養』なんだ」

と考えているのですが、それを認識できなければそれはそれで「思考停止」なのです。

「考える」とは「思考停止」しないことです。

僕はこの「思考停止」こそが、

「死んでるみたいに生きている」ことだと考えています。

ですから、僕は「思考停止」に陥らないために、「知識」として得たものから自分の頭で「思考」したものでも、「暫定的」と敢えて入れ、強調しています。

しかし、正しくないかどうか分からないからといって何もしないのはそれこそ何も分からない。

だから、暫定的でも自分の「考え」を述べたりして、勇気を持って行動する。

(考えることも行動の一つではあると思ってます。人間、完璧ではないですから出来ることしかできないですしね。何を持って出来ないかということの区別はやってみないと分からないという意味で難しいことではあるのですが...)

こうした「考え方」こそが本当の現実的な「生き方」なのではないでしょうか?

まだまだ浅い知識や捉え方も多々あるかと思いますがそうしたものを深め、「よりよく」生きるれるように学び、考えていきたいですね。。

最後まで読んで下さった方、ありがとうございました!

無理矢理まとめてしまいましたが、一つの考え方として参考になれば幸いです。



ブログ管理人

としちる

日本サッカー協会に入るため筑波大学体育専門学群を目指すも、受験前に父親が逃亡し、やむなく部活を辞める。教材費と受験費を稼ぐためにバイトしながらの宅浪生活を2年間送った後、国際総合学類に入学。タイにて日本語指導と留学も経験。帰国後、「人から始まる学問の見える化」を旗印とした『入門学術メディア Share Study』を創設。運営サイトは4つ、記事執筆数は250以上、イベント運営に携わった数は50以上(17年8月現在)。最近、VALUも動かしてます。

この記事が気に入ったら
いいね!しよう

Twitter で

「教養」をテーマにフリーランス系アカデミアンとして活動するとしちるのLINE@を始めました。ブログやTwitterではなかなか語れないことやLINE@登録者限定の資料も公開していく予定でっす!つれづれちるままに基本不定期更新で、執筆した記事をまとめて配信。確実に購読して、よりよく生きたい方どうぞ登録してやってくださいーッ!

-哲学
-

Copyright© TIRU LABO , 2017 All Rights Reserved.