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言語学

【自己責任分析8】ISIL日本人人質事件における「自己責任」概念の言語学的な考察とまとめ

投稿日:2016年2月26日 更新日:

これまで7回に渡って書いてきた議論を踏まえて、ISIL 日本人人質事件における「自己責任」概念の考察をしていきます。

 

ラストーーー!!!

 

前回の分析記事はこちら!

 

【自己責任分析7】デヴィ夫人ブログ「大それたことをした 湯川さんと 後藤記者」におけるコメントの批判的分析

デヴィ夫人ブログ「大それたことをした湯川さんと後藤記者」のコメントを分析したもの。コメントを文脈から4分類分けし、具体的な事例を取り上げて批判的に分析していきます。

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まず、ブログコメントにて度々散見された「覚悟」と「自己責任」の関係、後藤さんがメッセージにて残した「何が起こっても責任は私自身にあります。」と言い残した理由と後藤さんがそもそも想定していたと思われる「責任」概念に迫ります。次に、「自己責任」という概念が二重の名詞化としてそもそも曖昧で責任主体が明確に定まりづらいことを指摘します。最後は今回の論文のちょっとした猛省です。

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「自己責任」と「覚悟」

ブログコメントではたびたび「自己責任」「覚悟」という言葉が共に用いられ、特に後藤さんの「責任」について述べる時に言及されることが多く見受けられました。これらの関係を紐解くことで後藤さんの「責任」が如何に捉えられていたかを掴む手掛かりになるはずです。

まず考慮すべきなのは、シリアという日本政府の手の及ぶ範囲を逸脱した危険地域で後藤さんが拘束されていたということです。こうした状況下で人質となった後藤さんに取ることができる「責任」とは如何なるものと想定されるのでしょうか。ただ単に後藤さんの「責任」を追求したというものや、帰国してから何が原因でこのような事態に陥ったのかを話す説明責任があるとしたコメントがありました。いずれにしても後藤さんが「責任」を果たすには生きて日本に帰らなければならないという前提があります

ですが、前提とすべきなのは後藤さんがシリアにて人質として拘束されているということであり、そこで後藤さんが可能な行動は皆無に等しく、事態を収拾する手立てなど残されていないといっても過言ではないということです。

そこで登場したのが、「責任を取れもしないのに自分に責任があると言ったのは無責任である」「死の危険性がある場所へ自ら赴いたのだから、その覚悟をすることは当然である」といった趣旨の言及です。上述した通り、日本政府の手の及ばない地域でテロリストに拘束されるという極限の状況下で、後藤さんが取れる手立ては皆無に等しいわけです。そこには死を覚悟するしかないというものですが、ここにもいまだに何もすることがないという前提があります。

しかし、この前提は後藤さんが自決を選択することができるという意味で間違っているとも言えるかもしれません。確かに、後藤さんが自決すれば、テロリストは日本政府、ヨルダン政府との交渉の手立てをなくします。そこで、唯一の「責任」を果たす方法は自決するしかないという考えが生まれるのではないでしょうか。

こうした極限の状況だからこそ、デヴィ夫人が自決を促し、またそれに同調するコメント等が現れたと考えられます。しかし、自らの命を投げ出してまでも「責任」を果たす必要があるのかといった疑問は残るわけです。

そもそも後藤さんが残したビデオメッセージには「自己責任」という言葉は用いられていませんでした。後藤さんの発言の趣旨は何かが自分の身に起きてもシリアの人々に責任を負わしたくないといったものだったのです。

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そうだとしても、後藤さんの口から出た「責任」が具体的に何を指すのかは明らかではないですが、少なくとも特定の誰かを責めたところで問題が解決されないことは確かです。本来、この事件を引き起こすきっかけになったとするべきなのは日本人二名を人質に捕り、その交渉を日本政府、ヨルダン政府に行ったイスラム国だと言うのが妥当ではないでしょうか*1

今回の事件でフォーカスが当たったのは人質二名の生い立ちやその責任の如何ばかりであることは、デヴィ夫人の記事内容に対し異論を表明する以下のコメントでも指摘されています。

 

『確かにそうは思う。』

確かにそうは思います。母親に関してはぼくも賛成です。

しかし、後藤健二さんに関しては僕は違う意見を持っているので、聞いてもらえればと思います。まず、どこのnews を見ても誰の意見を聞いても、スポットは後藤健二さんに当たっています。僕はそれが腑に落ちません。この出来事は起こるべき必然の出来事だったと思います。それがたまたま後藤健二さんになりました。スポットを当てるべきはイスラム国と諸所国です。どうして、イスラム国が孤立し、はぐれ者が集まり、テロを起こすのか。問題はそこにあると思います。イスラム国に後藤健二さんはそのネタにされただけです。

確かに日本にとっては、遠い遠い国の話で直接関係ないことです。だから、踏み込むな。踏み込んだら、お前責任とれよ。といえば簡単なことかもしれません。でも、世界にはイスラム国に嫌でも怯えてる人がいます。野放しにはできません。僕たち日本人は向こうに行けば所詮よそものです。それが悔しいです。しかし、誰かが小さな一つ一つで変えていかなくてはいけないと思います。

今回に限っての後藤健二さんの理由は友達を救うためと確かに無謀かつ自分勝手です。しかし、僕には友達一人の為にそんなところへ乗り込む勇気はありません。みんな簡単にいいますが、もし自分の立場だったらどうするか。助けることなど考えずに仕方ない。諦めるしかない。と思うはずです。見習うところはたくさんあると思います。

成人したばかりで、普段ヤンチャしてますが、僕の夢も近いものがあります。道はあると思います。 失礼しました。

 

このコメントで指摘されているように、ISIL日本人人質事件でフォーカスが当たるのは イスラム国ではなく、人質二名となるケースが多く見受けられました。実際、その一環としてデヴィ夫人のブログ記事「大それたことをした湯川さんと後藤記者」がFacebook にて2 万件以上もシェアされ、そのことが BBC News でも取り上げられたと言えます。

こうした事態は「自己責任」という言葉が一種のキャッチコピーとして機能していると睨んでいます

では、その「自己責任」という言葉には言語学的にどのような意味合いや機能があると言えるのでしょうか?

「自己責任」の二重名詞化と多義語化

「自己責任」という言葉は「自己」と「責任」という二つの名詞によって成り立っている言葉です。「自己」を指し示す対象は今回の事件では文脈上、人質となった二人もしくはどちらかを指すものであり分かりやすいですが、ここに「責任」という曖昧な概念が付与されることでさらに曖昧な概念と化しているのが「自己責任」という言葉なのではないでしょうか?

まず注目すべきなのは「責任」は「~の責めを負う」「~を果たす役目、義務がある」といったものを名詞化して表現したものであるということです。

名詞化とは、動詞を含む節を名詞形にすることで、本来は文脈上の過程として表現できることを省き結果として表象する文法的隠喩のことです*2 。

今回の事件で例を考えると、「人質は自らが招いた事件を収拾させる必要がある」「人質が招いた事件として責めることは正当化できる」といった文章で「責任」を表すことができます。しかし、名詞化は時に社会的作用者(主語)やその行為作用(目的語)の排除を伴います

つまり、具体的な責任内容が捨象されてしまい、本来の責任概念がより一層曖昧になってしまうということです。そのため、何を責任となすのかといった具体的な内容を指し示すことなく、ただ「責任」という言葉が用いられる場合が多くなっていたのではないでしょうか?

そうした曖昧な「責任」という言葉に「自己」を付け加えることでどのような意味が付加されているのでしょうか?一見すると、その意味内容がより明確になっているかに思えるが、そうとも言えません

「自己責任」という言葉はただ当事者の責任を追及するものではなく、「自業自得」と同様に非難を意味する言葉として用いられていました。同様の指摘は『2015 年 3 月 7 日朝日新聞朝刊、私の視点、「自己責任論 非難の装置ではない」』にてもされています。以下はその一部引用です。

私たちが最近クールな言葉として使っている「自己責任」が、悪意を持って人を非難する時の「自業自得」と同意で使われていることに気づくべきだろう。自分の悪行の報いは自分が受けなければならないという、行為者を非難するための装置になっているのである。

ではなぜこのように「自己責任≒自業自得」として用いられるようになってしまったのか。これは「自己責任」という言葉が多義語化しているからと捉えられるのではないでしょうか?

多義語は「放射状カテゴリー」「連鎖」の絡み合いによって発生します。放射状カテゴリーとは、ある言語表現が同じ属性ではあるが別の表現に拡張すること。また連鎖と は、ある言語表現が本来表していた表現 A から B、B から C へと共通の属性に基づいて別の表象へと変化していくことです*3

こうした言語表現の認知的変化が、これまで起きてきた社会的プロセスと共に行われてきたと考えられます。

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分析のまとめ

ここで問題となるのは「自己責任」という言説がいつどのように誕生したかということではありません。問題となるのは観念や言説を再生産し維持する過程です*4

そういった意味で、この分析にてそれらの過程を十分に吟味した上で導き出された「正しい」結論と論じるのは時期尚早だと考えています。今回は時間的制約上、また自分の知識不足から十分に確固たる証拠を挙げきれたとは到底言えませんが、少なくともISIL 日本人人質事件でささやかれた「自己責任論」というものが如何様なものであったかの視座を指し示すことはできたのではないかと思っています。

今後も同様のテーマで論文を執筆していく際には、CDA がかねてから指摘されている批判とも向き合いつつ、推敲を重ね、より「正しい」ものにしていく所存です。

簡単に猛省!

ここまでが今回、卒業論文の練習として書いた独立論文のおおよその内容でした~

というのもそのまんま論文の内容を文体を少しだけ変えて書いたとこや、かなり違う書き方をしているところもあるからです…

たとえば、「自己責任分析4」で「不完全性定理」や「不確定性定理」を簡単に紹介し「完璧な客観性なんてないんだ」といった話をしたのですが、本来、論文であればきちんと先行研究を明記しておく必要があります。

 

ですが、今回は学会に提出するものといったわけではもちろんなく、論文を書く上での練習としていたものだったので、敢えて自分が前提としている「客観性」に触れてみました。

「正しさへの問い」というものが僕にとってのキーワードであるからです。

正直言って、まだまだ甘いところがたくさんあります

そこに関しては別の記事にて反省として詳しく書き、次の論文へと繋げていくつもりです。

また、他のやるべきことや分析事態に時間を取られて肝心の言語学的な考察が浅くなってしまいました…

(2016年2月26日)現在は言語学を勉強している最中です…要精進*5

今回の分析対象としたデヴィ夫人のブログに関してもあからさまな「誹謗中傷」にならないように注意して書いたつもりです。

もしおかしな点があれば分かるように指摘して頂けると、僕自身の勉強にもなり助かります。

それと、まんまブログに書いていってしまうのも長く煩雑になってあまり良くないなと思いました。笑

おそらく、次からはもっと工夫しておおよその内容を書いていくと思います。

というわけで、非常に長い記事で全部で3万字くらいあったのですが、すべて通して見て頂けたら非常にありがたいことだと思っています。

今回はこれにて。

では!

 

【自己責任分析0】独立論文を書いた反省とまとめ

全8回に渡って書いてきたISIL日本人人質事件における「自己責任分析」の反省とまとめです!

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*1:それでも本当に「イスラム国」だけが悪いのかという問題も当然ながら残ります。

*2:Norman Fairclough(2003)「ディスコースを分析する 社会研究のためのテクスト分析」 日本メディア英語学会メディア英語談話分析研究分科会訳、くろしお出版

      (Norman Fairclough(2003) Analysing Disc ourse: Textual analysis for social research,  Routledge)

*3:深田智・中本康一郎(2008)「概念化と意味の世界 認知意味論のアプローチ(講座 認知言 語学のフロンティア)」研究社 

*4:浜本満「イデオロギー論についての覚書」(2007)を参考。言説空間内における「真理化のプロセス」は結果的に真理的なものとしてみなされてはいるが、必ずしもそれが心理であるとは確定できず、それ故に言説において描きとるべきものは真理化される「過程」であるというもの。ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズムを援用して展開されたものです。面白いので後述、記事にしたいと思います。

*5:学部ではほとんど言語学を学んでいませんでした。

ブログ管理人

としちる

知識と知識が繋がった瞬間がたまらなく好きな凝り性。冊子制作で学んだ取材・記事執筆やデザイン制作のスキルをWeb上にて、学問的なものを発信することに役立てられればと思い活動している。

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