【ニューアルバム】Mr.Children『重力と呼吸』ファーストインプレッション―「居場所」と「自己」への回帰

結果がすべてなのだろうか?

「誰の真似もすんな。君は君でいい。生きるためのレシピなんてない。ないさ。」

僕が敬愛するMr.Childrenの楽曲『終わりなき旅』の歌詞の一部がこれです。

「よく生きるとは何か?」という問いを持ちながらずっと生きてきましたが、今でも分かったようで分かりません。

次から次へと入ってくる情報を受けていると、

「どうにも自分はまだ頑張りが足りないんじゃないか」

とかついつい考えてしまうことがあるんです。

自分では一生懸命考えて、考えるだけじゃなく動いて、動くだけじゃなく反省して、また新しいことにチャレンジする連続の中で少しでも前に進んでいるつもりではあるんですが…

「良い」ということを言うためには、そうではない「前」の状態があるから良いと判断しているとも言えそうです。

「苦手な数学のテストでいつもより良い点が取れたよ」

良いことですよね。

ですが、この「良い点数が取れた」の背景にはいったいどんな背景があったんでしょうか?

言い換えれば、結果として目に見えたものの前にあった過程にはいったいどんなことが起きていたのでしょうか?

僕はいつもこの過程がとても気になってしまうんです。

どんなに誰もが認めるような「良い結果」を出せたとしても、その背景にあったプロセスを無視して「良かった」と誰かが決めつけてしまうことにちょっとした怖さを覚えてしまうことがあります。

もし無理して勉強するのが嫌で嫌でしょうがないのに、親や先生に強制され、その結果で「良い点数が取れたよ」と報告したのであれば、それは本当に良いことなのでしょうか?

実際はもっと複雑なさまざまな関係性の中で、一つ一つのことばのやりとりがあるでしょう。

例えば、友人にバカにされた悔しさをバネに猛勉強したのかもしれません。

例えば、「できない」という自分の殻を破るためにもチャレンジしたのかもしれません。

そして、その行動の動機は利己心かもしれないですし、恐怖心かもしれません。

「自分らしさ」を保つために、言い換えればアイデンティティを確保するために起こした行動だったと言えるかもしれません。

日常において、僕らの目の前には無数の選択肢が転がっています。

もちろん、何もかもできるわけではありませんが、少なくとも「何かをしたいんだ」という動機がなければできたこともできなくなってしまうでしょう。

ですから、結果として何を生むのかではなく、まずはどんな過程を描きたいのかをしっかりと胸に刻む必要があるのではないでしょうか?

競争社会が何もかも悪いとは思っていませんが、いささか「結果がすべて」と思われることに僕は違和感を持ってしまいます。

そもそも、誰も未来は分からないのにどうして「今」を見つめることから目をそらしてしまうのでしょうか?

足元に目を向け、顔をあげながら視野を広く持ち、一歩を踏み出す。

きれいごとのようですが、現状を認識した上で理想を描く。

そんな生々しいきれいごとを僕は語っていきたいと思います。