人はなぜ生きるのでしょうか?
人はなぜ自由を求めるのでしょうか?
人はみな誰しも「自分らしさ」の檻の中から逃れられないのでしょうか?
不平等と平等
思うに人というものは、生まれた時点で不平等の状態にさらされます。
現代社会においては「基本的人権としての平等」というものが叫ばれてており(と言っても本当に叫んだのはもっとずっと昔ではありますが)、皆が皆、「平等」というものが当たり前かのようにあると思われているように思えてなりません。
ですが、本当のところは「不平等」が本質のように思えます。
皆、生まれた時点で時代が異なり、両親が異なり、育つ環境も異なれば、持って生まれた能力も異なります。
なのに、なぜこうも「平等、平等」と求めるのでしょうか?
おそらく、そうした不平等があるからこそ、「平等」という価値を定めて、近代において形作られた社会を一定の形で循環させていくために敢えて当たり前の「不平等」を捨て去ったのかもしれません。
自分らしさの檻
本当に不平等というのは悪いものなのでしょうか?
いや、「不平等そのものが悪いのか」という問いは意味をなしませんね。倫理的・哲学的な問いにならざるを得ません。
考えること、対話することに一定の価値はあると思いますが、そればかりで何もかも決めようとするのは知識偏重の考えのように思います。
そこで、思うにどのような状況なのかを鑑みる必要があります。
生まれながらにしてであれ、後天的であれ、何かしらの不自由を持った方がいます。
何を持って「不平等」となすのか?どこまでは取り払われる「べき」ものなのか?
そういった一つひとつの事例というものは、一人ひとり、場面場面の状況に鑑みていく必要があるのでしょう。
そういう意味では社会という歯車を成り立たせるというマクロな視点では、この世界は上手に作られてきていると思われます。
小さな一歩を踏み続ける
しかし、「何かしら自分がなしたい!」という欲望を持つ時、そしてそれを為すことができる状況の時、同時にそれを為すだけの時間と労力を割くという忍耐力を持てる時、いつまでもいつまでも「不平等」に文句を言うのはいかがなものでしょうか?
いきなり、100mを10秒切って走れなくても、20秒では走れるかもしれません。15秒に縮める、徐々に近づけるために繰り返す、もっと早く走るためにより良いトレーニングと指導を教授するために努力する。
どう足掻いても「99%は厳しいだろう」ということは世の中にありますが、「99%という確立を少しでも下げる」努力はすることができます。
なぜその努力をせずに、不平不満ばかりをたらしてしまうのでしょうか?
仮に自分でできないとしても、誰かの力を借りることでできることもずっともっと増えるはずです。
自分らしさの檻
結局のところ、「そんな努力をすることができるのも才能」です。
どこまでそんな意志を持てるか、持ち続けられるのかは、人によって異なります。
つまるところ、生まれたときからの「自分らしさ」というものからは逃れられずにいてしまうのもまた事実なのでしょう。
仮に人間が持つ欲望の本質にあるのが「自由」なのだとしたら、いつまでも「自分らしさの檻」から逃れられないことは全くもって人は根本的に矛盾した生き物だとは思わないでしょうか?
ですが、もういっそのこと腹をくくってみるのも一興です。
「そうさ、人は矛盾した存在としてあるんだ!」
そして、矛盾しているからこそ同時に冷静な目も持つのです。
「そうさ、逃れられない自分と向き合い続ける覚悟を持とう。」
そんなどこかアイロニカルでありつつもポジティブな姿勢を取れた時、それを僕は「覚悟」と呼びたいのです。