自分らしく生きるための教養とCDS──批判的かつ対話的であるために

「公共圏と私生活圏を統合する生活の能力」と定義されている((清水真木(2010)『これが「教養」だ』新潮新書、P15))。 それはつまるところ、「自分らしく生きる力」というわけだ。この意味での教養はCDSを学ぶ者にとっても大事な視点だと感じている。 というのも、批判的であるということは対話的でもある必要があるからだ。

自分らしく生きる力としての教養

教養と一重に言っても、自由七科をはじめとした古典的素養や知識に、芸術やスポーツに礼儀といったようにさまざまに解釈されている。 ことばの意味とは時代の変遷の中で変わっていくものであるから、今の知識を強調した意味合いが間違っているわけではない。 だけども、ことばの歴史が持つ意味合いを深掘りすることは今を見つめるためにもとても重要な作業だ。 教養の歴史を紐解くと、特に日本語に輸入されてきた時にはドイツ語である「Bildung(ビルドゥング)」との関係は切っても切り離せないのだろう。 13世紀には使われていた「Bildung」は元は宗教用語だったが、18世紀に市民社会が勃興する時期であった。この時期は啓蒙主義の時代でもある((18世紀に近代社会が形成される中で権利を持った市民が誕生した。この市民が私的生活領域だけではなかく公的領域を持つようになった社会が市民社会である。CDSの哲学的土台にもなっているハーバーマスは主著『公共性の構造転換』の中で18世紀後半に公共性と市民社会が生まれ、20世紀半ばに市民的公共性が空洞化し崩壊したと述べている。))。 CDSは社会的不平等に対して異を唱えるという意味で啓蒙的な学問であることを考えると、この教養という概念をどう捉えるかによって表に出される態度は異なるものとなるのではないかと思う。 というのも、テクストを批判的に分析するという行為自体が、逆説的に批判的に読み解けないことを良しとしない言説を再生産してしまい、一種の抑圧として機能してしまいかねないからだ。

批判的とは対話的であること

抑圧の再生産という逆説という一種の相矛盾した関係が、批判的分析をする上でどうしても生まれてしまう。 もちろん、ことばの中には見えない構造的な暴力が潜んでいるし、さまざまな権力の押し付けは世に溢れていると思う。 けれど、皆が皆、そうしたことばの背景に潜む構造を読み解くことなどできるのだろうか? 僕は「できない」と思う。 それぞれの人々にはそれぞれの価値観や暮らしがあり、それこそ「自分らしさ」を持って生きている。 そんな自分らしさを押しのけてまで、批判的であることを強要することなどできやしないはずだ。 少なくとも僕はその立場を取る。 批判的に読み解くことも重要だと思うが、一方で批判的な姿勢を共有し対話的であることも同じくらい大切なことである。 批判の意味を「自らも批判されることを考慮し、建設的に議論し合う」とするCDSにおいて、対話的であることもしっかりと考えなければならない。 世の中にはまだまだあからさまな権力の乱用もあるが、複雑な歴史的背景や政治的決断が求められる事象も存在している。 むしろ、現代社会における問題はそうした一概に良し悪しを決めることのできないことにあるのではないだろうか?

二項対立を乗り越えるための批判精神

個々人の欲望を源泉に持つ自由は、「自分らしく」あることに向かっている。 同時に、そんな自分らしさはさまざまな対立を他者と生み出してしまう。 自分らしさを担保しつつ、他者と相互的で対話的な関係を保った上で、世にはびこる抑圧的な言説に対抗する批判精神を持つにはどうしたら良いのだろうか? 残念ながら、僕もいまだその答えを見いだせずにいる。 いや、むしろこの永遠の闘争とも呼べる、平等を実現しようとする不可能性にこそ、他者と生きる上での対話の重要性が示唆されているのだ。 二項対立に陥ってはいけない。 二項対立を乗り越え、複雑な世に生きることの覚悟が必要だ。 そして、人間が生きる上で避けられない政治においては最終的に決断が求められる。 そこに、絶対的な正しさを担保することはできやしない。 その態度を共有することで、CDSはより意義を持ちうるのではないだろうか?