読書雑記『「世間体」の構造 社会心理史への試み』第1章

直近の研究テーマとして、日本社会における「自己責任論」がどのように反復されてきたのかに関心がある。そうした関心を持つのは、自分が「大衆」と呼ばれる集団性が好きではないからだ。情報社会化が進んで、個人的にはいわゆる「日本文化」的な「世間」なんてものはなくなっていくだろうと思っていた。昔の日本社会のようにあからさまな「世間」は確かに変化していくが、どうもSNSを介した「コミュニティ」への復興の影にそうした「世間観」が残影しているように思える

正直、「文化」というくくりで大きな「日本文化」なるものを語ることは好きではなかった。けど、そうしたまなざしを向けなければ理解、記述できないような現象があるように思える。そこで、読み始めたのが井上忠司(2007(1977))『「世間体」の構造 社会心理史への試み』だ。ひとまず、第一章をメモを取りながら読んだのでその読書メモをば。

井上忠司(2007(1977))『「世間体」の構造 社会心理史への試み』基礎情報

基本情報
  • 発行年月:2007年12月10日(初版:1977年)
  • 出版社:講談社、講談社学術文庫
  • 著者名:井上忠司
目次

序章 「世間体」の発見
第1章 「世間」の意味
 1 「世間」の原義
 2 「世間」の特徴
第2章 「世間」観の変遷
 1 「浮世」と「世間」
 2 旅と「世間」
 3 イエと「世間」
第3章 「世間」の構造
 1 ウチとソトの観念
 2 ミウチ−セケン−タニン
 3 マスコミと「世間」
第4章 「はじ」の社会心理
 1 「はじ」の文化
 2 「はじ」のメカニズム
 3 「はじ」の類型
第5章 「笑い」の機能
 1 日本人の「笑い」
 2 <まなざし>の呪縛
 3 「笑い」の教育
第6章 「世間体」の文化再考
 1 「世間体」の今日的意義
 2 比較文化論への視座
あとがき

内容紹介

世間に対して体面・体裁をつくろい、恥ずかしくない行動をとろうとする規範意識―それが世間体である。唯一絶対神をもたない日本人は、それを価値規準とし、世間なみを保つことに心を砕いてきた。世間の原義と変遷、また日本人特有の羞恥、微笑が生まれる構造を分析し、世間体を重んじる意味を再考する。世間論の嚆矢となった出色の日本文化論。

「世間体」の構造 社会心理史への試み
著者:井上忠司
出版:2007年12月10日(講談社)

読書メモ:第1章「世間」の意味

最初に「世間」の存在には気づきにくいという当たり障りのない話。以下、その二つの理由。

  1. 慣習化した行動様式の意識化が困難であること(P15)
  2. 「世間体」にとらわれたくないという意識による「世間体」の無意識化への抑圧(P16)

(アメリカ留学での若者の結婚-離婚の早さへの異文化経験を自身の「世間観」と対比して肯定的に受け入れる若者の発言を引用し)要するに、私たちは、日常生活の場面において、「世間体」にとらわれている自分を、さして意識していないものである。私たちにとって、あまりに血肉化してしまっているので、ふだんは、意識のレベルにまでのぼってこないのであろう。私たちが、私のうちなる世間体を問う、内省の姿勢をもたぬかぎり、「世間体」は私たちに共有のテーマとなりにくいゆえんである。

P17

世間体を主題にした三つの論文

  1. 大牟羅良(1953)「農村の共同体」
  2. 会田雄次(1966)「世間体ということ」
  3. 井上忠司(1967)「世間体について」

大牟羅良が描く「世間体」(P19-20)

大牟羅氏によれば、農村で「世間体がいい」ということは、つまるところ、ムラの習俗から逸脱しない行為を意味していた。逆に、「世間体が悪い」といえば、それは、ムラの習俗から逸脱した行為を意味しているのである。そんな「世間体」の内容は、ムラの習俗から逸脱した行為を意味しているのである。そんな「世間体」の内容は、たんに道徳規範的なものだけにとどまらない。物事にたいする好き嫌い、美醜の判定などにいたるまでをも、ふくむのである。極端にいうなら、個人のいっさいの生活態度を規定しているかにさえ、見えるほどであったという。
(中略)
「世間体」にとらわれている農民は、かれらの頭のなかに、「世間体」を満足させるような仮想の人間像がえがかれていて、あたかもその人間が行動するであろうような行動の範囲内において行動する、ということになる。大牟羅氏は、この仮想の人間像がムラごとにちがうけれども、ひどく保守的で、ムラの習俗に少しのさからいもない点では、まさしく共通していることを見出した。しかも、いま仮想したような人間像の典型的人間が、おのおののムラにかならず、一人や二人は実在していることをも、見出したのだった。ムラの日常生活を規制してゆくさいに、このような人物が、モデルの役割をはたしているのである。

P19-20

会田(1966)のベネディクト批判と「世間体」の肯定的提言

ベネディクト(1964)『菊と刀』

 「さまざまな文化の人類学的研究において重要なことは、恥(shame)を基調とする文化と、罪(guilt)を基調とする文化とを区別することである」というユニークな提言をおこなった。一般に、人間の行動を律する制裁は、二つの観点からとらえることができる、というのである。一つは、外面的な「恥」の意識という制裁にもとづいて善行をなすばあいであり、もう一つは、内面的な「罪」の自覚にもとづいて善行をなすばあいである。
 ベネディクト女史にしたがえば、わが国の文化はあきらかに、「恥の文化」にぞくしている。つまり、「日本人は恥辱感を原動力にしている。(中略)日本人の生活において恥が最高の地位をしめているということは、恥を深刻に感じる部族または国民がすべてそうであるように、各人が自己の行動にたいする世人の批評に気をくばるということを意味する。かれはただ、他者がどういう判断をくだすであろうか、ということを推測しさえすればよいのであって、その他者の判断を基準にして、自己の行動の方針をさだめる」からである。

P22-23
会田(1966)のベネディクト批判(P24)
  1. そもそも、ヨーロッパふうな罪の意識などというものを、わが国に成立させようなどど考えたことが、第一の誤りであった。
  2. 欧米に、そんなみごとな罪の意識が確率していると信じたことは、第二の誤りである。かりに罪の意識があったとしても、「罰」という、やっかいなものがついていたことを、見のがしてはならない。
  3. 日本人の恥の意識を、私たちはただ、たよりないものとして、いちがいに否定しさってよいものかどうか。
  4. 「世間体」を思う日本人の心情は、唯一神をもたない日本人の、まさに日本的な基底感情なのである。
会田(1966)による「世間体」の肯定(P25)

会田氏の結論ははなはだ明快である。要するに、私たちは、「世間体」をかざるということを否定する必要など、毛頭ない。否定するのではなくて、むしろ積極的に肯定することによって、私たちは、私たちの倫理をたかめる道を歩むべきである、というのである。そのために、氏は、二つの注目すべき提言をおこなっている。そのために、氏は二つの注目すべき提言をおこなっている。

P25
  1. <空間>の問題
    • 「世間体」という社会的規範を、生活の中で具体的に接触する「せまい世間」の中で「ひろい世間」として内面化してしまうのが問題であり、その意識を広げることが重要
  2. <時間>の問題
    • 自分の面子を維持しようとする、その維持の時間を、瞬間的な短時間と思わず、時代的幅を持って社会的規範の変容可能性を視野に入れること。

「世」は<時間>を「間」は<空間>をあらわす

読書雑記

第1章以外はパラパラと目配せしかできていないが、思いの外「THE 日本文化論」のような記述ではなく好印象だった。今でも通ずる部分があって、言語化されていることに学びがあると感じる。

いわゆる、「日本文化論」なるものは文化ナショナリズムとして糾弾されて研究自体は後退しているという印象が強い。かくいう自分もそうした文化研究に対する批判的研究群と似たような志向性を持っていた。研究とは程遠い恣意的な態度として描かれる本質主義的な「日本文化論」は批判されて然るべきだと今でも思う。が、まったくもってそうした文化的共有性がない、ということは言えない。むしろ、研究として行うべきなのは、雑な日本文化論に対してはハッキリと距離を取りつつも、社会文化の変容とともに残影となる文化的共有性とその形成過程を捉えることなのではないだろうか。

こうした視点を強く持てるようになったきっかけに、飯田未希(2012)「文化人類学における「日本的自我」を読みなおす 文化ナショナリズム批判を超えて」を読んだことにある。この論文では「文化ナショナリズム」や「ポストコロニアル」の潮流の中で背景化していった「日本的自我」の研究について概観されている。しかし、敬語の使用などの「相対的な丁寧さの度合い」を引き合いに、社会的な距離関係は言語コミュニケーションを介してなされることから、「強制された文化」ではなく「共有される文化」として「日本的自我」の研究は行えるのではないかと言及されている。

「世間」という概念も、本質主義的に用いるのではなく「相対的なもの」としてある文化的共同体(言語使用などの接触頻度の高低)における「私的・公的領域」をディスコースとして読み取れるのではないか、というややざっくりとした仮説を持ってきた。

ここに情報社会のコミュニケーション特徴の具体的事例とそのエッセンスに描かれる規範性を読み解ける「相対的な分析枠組み」が見出せたら…?文化的制約性というのは意識化しづらく、まるで「呪い」のように働く強烈なものだ。だからこそ、対象化し、相対化し「続ける」必要があるのだと思う。

正直、それは辛い作業なので、もうちょっと明るい、可能性のある話もしていきたいのだけど…まぁ、今回はこのへんで。