卒業論文「批判的談話研究を用いた文系学部廃止論争の分析」の概要

論文の目次

[memo title="目次"]第1章 はじめに 第2章 大学改革と文系学部廃止論争 第1節 大学の誕生と改革 第2節 文系学部廃止論争 第3章 批判的談話研究とは 第1節 Norman Faircloughの弁証法的アプローチ 第2節 CDSにおけるコミュニケーション出来事 第3節 論者の政治的立ち位置 第4章 分析 第1節 文部科学大臣による通知(2015年6月8日) 第2節 日本学術会議による声明(2015年7月23日) 第3節 文部科学省高等教育局からの応答(2015年9月18日) 第4節 文部科学省と日本学術会議による文章の比較分析 第5章 おわりに[/memo]

論文概要

さて、この論文では結局のところどんな課題意識を持って、どんなことを明らかにしたのかについて語ろう。結論から言ってしまうと、文科省の文章は「対話性」が低いが、日本学術会議の文章は「対話性」が高い。一部、同じ課題意識を持っていても、テクストの部分・全体で使われることば異なる中で価値観とアプローチの方法の違いが浮き彫りになった。一概に、政策の如何だけに気を取られるのではなく、誰と誰がどのようにそれぞれのコミュニケーションを解釈しているかによって、近い意見でもすれ違いが起きてしまっているのだった。

問題意識

2015年6月に文部科学省(以下、文科省)から各国立大学法人(以下、国立大学)に対して出された通知「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて(通知)」を中心に、その解釈や政策を巡っての議論を対象とした。通知に対して日本学術会議という日本の研究者たちの代表者たちが集った組織からも『これからの大学のあり方-特に教員養成・人文社会科学系のあり方-に関する議論に寄せて』(2015年7月23日)という批判的な声明が出されたのだが、さらに『新時代を見据えた国立大学改革』(2015年9月18日)という文書にて日本学術会議に対する応答がなされた。その他にも、メディアが様々な観点からこの論争を取り上げているが、今回はあくまで文科省と日本学術会議のやり取りに焦点を絞った分析を行った。 なぜか? 東京大学副学長も務める吉見俊哉先生からも『「文系学部廃止」の衝撃』(2016)が出版されるなど、大学関係者から批判的な検討がなされている。けれど、ディスコース分析という観点からの専門的な分析はなされていない。そこで、ディスコース分析の中でもとりわけ社会的抑圧をもたらすテクストを批判的に読み解く批判的談話研究(Critical Discourse Studies:CDS)を用いて分析を行った。 [kanren id="229"]

分析方法・目的

CDSの中でも特に、テクストを中心に社会文化的実践にその両者の間に位置するディスコース実践といった社会文化的コンテクストも踏まえた枠組みにより、ディスコースを捉えるFaircloughのコミュニケーション出来事を分析概念に用いた。 通知における文部科学省の意図/非意図的に表象されたものをはじめ、用いられたテクストの背景や前提を中心に読み解くことを目標とした。また、コミュニケーション出来事の連鎖の中で「語られたこと」や「語られていなかったこと」を分析することで、論争における議論の拡散のされ方を追いながら、今後の大学改革論争におけるより良い議論のあり方の一助になることを目指す。 [memo title=""]コミュニケーション出来事という専門用語が分からない人も多いと思う。要するに、なにか社会的な出来事があった際に(例:地震)、それをニュースなどで報じられたり友だちから伝えられたりすると、それはコミュニケーションを介しているので、コミュニケーション出来事と呼ぶのだ。1)専門的にはもっと細かく議論がされている。ヨーロッパ、特に今回においてはFaircloughの理論と、アメリカ言語人類学だと同じ「コミュニケーション出来事」ということばを使っていても枠組みが異なる。かなり近い意味合いでも使われているが、どこから源流を持って使われている概念や理論なのか注意する必要がある。[/memo]

論文構成

第2章では、大学が誕生した歴史と日本において大学が輸入され、時代的変遷に伴いどのような改革がなされてきたのか、また文系学部廃止論争で起きた論争の概略について記した。 第3章では、分析アプローチとして用いるCDS、とりわけFaircloughの弁証法的アプローチの基本的理論について概説した。CDSは定式化された方法論を持たず批判的態度を共有する学問分野だ。そのため、その他のCDSにおける方法論やディスコースの概念の整理を行いつつ、論者が持つ文系学部廃止論争に対する政治的立ち位置を示した。 第4章では、3つの分析対象である、文部科学大臣による「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて(通知)」(2015年6月8日)、日本学術会議による「これからの大学のあり方―特に教員養成系・人文社会科学系のあり方―に関する議論に寄せて」(2015年7月23日)、文部科学省高等教育局による「新時代を見据えた国立大学改革」(2015年9月18日)を取り上げ、最後に文部科学省と日本学術会議両者の比較分析を行った。 第5章では、CDSにて文系学部廃止論争の分析を行った意義と、CDSに対する問題点を取り上げ、今後の研究の方向性について述べて終える。

 論文を書き終えて

共通の理論的なフレームワークがなく、「批判的態度を共通して持つ」というCDSは「複雑なものを複雑なものとして受け入れつつ、批判的な分析を行う」という僕好みの学問分野として選んだものだったが、その多様性から自分なりの指針を見出して論文としてまとめることにはなかなか苦労させられた。学問の入り口に立つきっかけが個人的な大学に対する不平不満や批判だったことから、今回の分析を通じて広く大学の立ち位置を再確認する機会となって、それなりに満足している。 だが、分析を行ったからといって大学が良い方向に変わるのかは分からない。それこそ、より具体的に行動を落としていくとなると、僕は政治的な介入をするようにするしかないし(例えば、文科省に入る・政治家になる)、もしくは教育改革をする当事者として教育学などにも携わっていくなどといった方向性がありえるはずだ。しかし、今回の分析は個別的なテクストの分析に終始することしかできておらず、本当はもっともっと広く深く社会文化への分析に踏み込んでいきたかった、という思いも持っている。 今回はCDSという枠組みを用いて分析を行ったが、正直、CDSが持つ「啓蒙思想」が現代においてどれだけ効力があるのか疑わしいとも思っている。政治家でもなく、教育学者でもない人間が、どれだけの専門性があるかというと、やはり専門的に研究している人には及ばない。いくら民主主義が前提となっている社会とはいえ、今回の論争で人文社会科学の意義が問われたように、CDSの意義をどのように説明することができるだろうか?ライフスタイルが多様化し、経済不安が囁かれる中で、それぞれがそれぞれの人生を謳歌すべく、あくせくしている。そこで、「批判的な分析が大事なのだ」という声は逆説的に「批判的に読み解かなければならない」というように、ある種、専門知を持たない一般の人びとへの抑圧になりかねない。 そうしたアンビバレントな思いを抱きつつ、今回の執筆を行った。これから修士論文を構想していくに当たって、改めてCDSの理論や啓蒙思想の是非について、根本的に考え直してみたい。もちろん、批判的分析には意義がある。そうした批判を封殺してしまうような風潮があまりにも強くなってしまうことには、不安な思いを抱いている。しかしだからこそ、粘り強く、人文学における学術的分析の意義を考えていきたい。 それを考えることなしに、ただ一様に「文系は役に立つ!」と言っても、それはかつての教養主義的言説を再生産してしまっているだけなのかもしれない。やはり、これからの「教養」を僕ら若手が特に考えていかなくてはならないのではないだろうか? その一つの参考になると考えているのが、大学を辞め、自身で株式会社ゲンロンを立ち上げた東浩樹さんの著作『観光客の哲学』だ。従来、グローバリズムの象徴として批判されてきた「観光客」という存在から新しい政治哲学を構想しようとした意欲作であった。 そこで描かれた政治哲学は「偶然性を基にしたゆるやかな個の連帯」を唱えるものだ。「観光客の哲学」で描かれた政治哲学は、僕が抱えていた問題意識に新たな光を指し示すようにも思えるが、当然、批判的な検討が必要だろう。東さんが運営している「ゲンロン」も魅力的な空間ではあるが、酒を飲み交わしながらのトークショーが、学術的な空間かと言われれば、必ずしもそうとは言えないんじゃないかという声も聞く。 今僕が抱えている課題意識はほんの2,3年で答えが出るようなそんな簡単な問いではない。それを胸に刻んで、次なる思索を続けていきつつ、外との関係性を紡いでいきたいと思う。 [kanren id="316"]]]>

注釈

注釈
1 専門的にはもっと細かく議論がされている。ヨーロッパ、特に今回においてはFaircloughの理論と、アメリカ言語人類学だと同じ「コミュニケーション出来事」ということばを使っていても枠組みが異なる。かなり近い意味合いでも使われているが、どこから源流を持って使われている概念や理論なのか注意する必要がある。

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