きっかけと謝罪

きっかけとなったツイートは画像と共に、「ちくま学芸文庫ですら、こんな妙な帯をつけて売上を狙う時代か。」ということばが添えられたものだった。 https://twitter.com/Buffalo1999/status/948782011489042432 このツイートに対してちくま学芸文庫も1日あけてすぐさまに以下から始まる連続ツイートをしている。 https://twitter.com/ChikumaGakugei/status/949263527578972162 https://twitter.com/ChikumaGakugei/status/949263623284641797 https://twitter.com/ChikumaGakugei/status/949264079985627136 https://twitter.com/ChikumaGakugei/status/949264156913315840 https://twitter.com/ChikumaGakugei/status/949264383951060997 https://twitter.com/ChikumaGakugei/status/949264458248892416 https://twitter.com/ChikumaGakugei/status/949264680656125953 https://twitter.com/ChikumaGakugei/status/949264885078110208

談話分析的観点

「ああ」という指示が示すもの

今一度、今回の問題となった帯の文言を見てみよう。
「なぜ中国・韓国はああなのか?東アジアの思想を一望―極めつけの入門書!」
傍線を引いた(文字上に点々のルビを触れなかったため)箇所の「ああ」という表現は、どちらかと言えばインフォーマルな表現だろう。 正直、テクスト内分析はまだまだ不勉強でこの「ああ」がどういったカテゴリーで捉えられるのか分からなかったので、社会言語学を専門とされる先生に聞いてみたところ、「コソアドの指標域」から理解されるもので以下のように捉えることができるとのことだった。 https://twitter.com/cds_guides/status/949522062820831232 その他にも、「読者に対する謝罪のことばはあっても中国・韓国に対する直接的な謝罪の意を示すことばがない」ということを指摘されていた。 パッと調べたところ見つけた「指示詞コソアド」に関する論文もあげておく。 [sanko href="http://petalismos.net/wp/wp-content/uploads/gakubukiyou2000-kosoa.pdf" title="談話モデルと日本語の指示詞コ・ソ・ア" site="東郷雄二のウェブサイト" target="_blank"]

名詞化された「中国・韓国」の中にある多様性

今回のプチ炎上案件はTwitterでの指摘に対し、Twitter上のツイートで謝罪するという形でなされたことが興味深い。 Twitterで謝罪することで「読者」、とりわけTwitter上で今回の件を知った「読者」に向けて表明したのだろう。 やはりそこには暗示された当事者である「中国・韓国」に対することばはうやむやになってしまっていると言って差し支えないと思う。 確かに、日本に住むマジョリティは「日本人読者」であるからその読者を想定して、普段ニュースで隣国との種々の関係性を見聞きする中で形成される「中国・韓国」のイメージは一定程度共有されていると言える。 だが、当然のことながら日本には中国・韓国に出自を持つ方は大勢おり、また中国・韓国と言ってもその中には多種多様な個人と組織がいる。 そうしたさまざまな主体を一面的に「中国・韓国」というラベリングで名詞的に表現されることで捨象され、かつその内容が「ああ」という指示により排他的な意味合いが込められるように表現したことは注目すべき点だ。

「売上を狙う時代」の意味を考える

さらに言えば、当該のツイートにもあったように、「ちくま学芸文庫ですら、こんな妙な帯をつけて売上を狙う時代か。」と指摘されていることも注目したい。 ここで、「ちくま学芸文庫”ですら”」という表象から、「”ちくま学芸文庫”はそのような表現をする主体ではない」こと、逆に言えば「そのような表現をする主体があること」が読み取れる。 「こんな」で強調した上で、「妙な」で否定的な意味合いが込められ、「売上を狙う時代」という表現からは「ちくま学芸文庫の意図は、学術的出版物を扱う出版社がより多くの人に購買してもらうために行った」ことが暗示されている。 学術出版社とは言え、出版不況や文系学部廃止論争が取りざたされたり、人文系に限らず基礎研究がないがしろにされたりすると言った状況があることに対する暗たんたる思いが込められていると言えるのではないだろうか1)もちろん、必ずしも取り上げたような意図があるかどうかは分からない。。 ここで述べておきたいが、必ずしも「売上を狙う」ことが批判的に受け取られるべきことと言いたいのではないことだ。 「批判」とつくものに条件反射的に「マルクス主義」を想起して否定的に捉えられる節があるので一応述べておく。 しかし、学術的な知見を広める媒体としての出版社が、今回のようなこれまでの人文学的知見とはむしろ逆の効果を狙ったような文言を一時であれつけてしまったことはやや残念な気持ちを持った。

対話と批判の空間を残すということ

もちろん、これは学術系サイトまで立ち上げて「社会的不平等側に立ち批判的分析を行う姿勢を共有する」ことを目指す僕だからこそのまなざしであることは間違いない。 例えば、この帯を見て純粋に(もっともそんなものがあるかどうかは別として)、「あんな中国・韓国の背景にある思想を知りたい!」という稀有な思いを持った人がいるかもしれない。 そして、本の内容を読み解き、「これはどうやら帯に書かれていたことはおかしいぞ…」という思いを持つかもしれない。 もしかしたら、今回のような帯だったからこそ手にした人がいるかもしれない。そのような人は別の帯だったら手にせずに、人文的研究の蓄積を知り得る機会はなかったかもしれない。 これは、今回のようなプチ炎上があったからこそ、そのやり取りをして知るきっかけになった人にも言えることだろう。 だが、だからといっていわば「なんでもあり」で済ましてしまっては対話も批判もない。 少なくとも、今回の件で声をあげる主体として「人文知を学んできたもの」、「”中国・韓国”の中にいる個人・組織」がいてもおかしなことはない。 そういった言論空間を残す余地があることこそが、肝要なのではないかと思う。 何もかも「正しさ」を押し付けられる生活は窮屈だと思うが、「正しさ」、少なくとも「良さ」を求める声を押しつぶすようなことはしたくない。 そんな気持ちを今回の件で抱いた。 何気ない一言の中にも社会経済的な要素が垣間見えるのは間違いない。 テクストがすべてを物語るわけではないが、テクストによって僕らは媒介された「メッセージ」を受け取っているし、送ってもいる。 無自覚を自覚に呼び戻すことに対して、これからも目を光らせていくことに僕は力を注ぎたいと思う。]]>

注釈

注釈
1 もちろん、必ずしも取り上げたような意図があるかどうかは分からない。