ありがたいことに、母はめんどくさがりな僕に「書類は出したのか?」とLINEしてきたりとか、「本当に大学院は合格したのか?」と今度旅先から帰って大学で受け取るという連絡をした後に訪ねてくる。
祝日を挟んだおかげで合格通知を郵便局で予定通り受け取ることができなかったのも不慮の事態ではあったが、郵送先の住所を変更するにはいろいろと間に合わないらしい。
「あーあ、めんどくさいなぁ。」
と思ってしまった。もっと便利になったらいいのにって。
けど、それもこれも今の「忙しい」生活に追われて致し方なく後手後手になってしまった結果で、そんなに慌てずに丁寧に生きればいいのにって心の中では思ってる。
たぶん、そういうもっと便利に便利にという裏には、もっともっと誰よりも前にという競争精神が働いてしまっているんじゃないかとも考えてる。
一重に「便利」だとか「役に立つ」と言っても、誰にとってで、いつ、どこで、なんのためで、どんな風にといったことを考えてみないとよく分からない。
目まぐるしく過ぎ去る、追い越し、追い越される日常の中で、
「いったい自分はなんのために生きてたのだっけ?」
なんて問いかけにはどれだけの「意味」があるんだろうか?
人によって、文脈によってこの「意味」の意味も変わってしまう。
であれば、ことばのやり取りをする上でそれぞれがどんな背景を持っていて、どんなことを求めているのかが分からないと、結局のところ何をもって「意味」があって「役に立つ」ものなのかも分からない。
だけども、僕らは時にどころかいつでもそれぞれの解釈に頼らざるを得なくコミュニケーションを行なっている。
きっとここで僕が書くことばの意味も誰にも伝わらないし、それでいてどこかで誰かにとっての意味が届くものなのだろう。
「コミュニケーションはディスコミュニケーションが前提にあるのではないか。」
と社会言語学を学ぶ研究者の方から聞いたのは今年の5月のことだ。
しかし、だからといって日夜、僕らは生きている限り、いや生きてしまっただけで何かしらのメッセージを発し続けている。
「その研究ってなんの役に立つの?」
と問うことにはいったいどんな意味が含まれているのだろう。
何気ない一言かもしれない。
だけど、そんな一言が時に誰かの心を引き裂くこともまた事実だ。
「なぜ役に立たないといけないのだろうか?」
研究する上でも、社会貢献や社会的ニーズに応えることが明確に求められるようになってきた。
大学の自治とか学問の自由と言っても、実際のところは空費なことばとして現実では便宜的に使われているようにも思える。
大学の歴史を遡れば今現在の大学ができたのも近代国家が作られた18世紀に国のエリートを育てる機関として位置づけられていたものであったし、では現代において求められるのが「社会貢献」であるならばきっとそれはそれで間違いでもなく単なる時代的変遷において生まれた事実にしか過ぎないのかもしれない。
別に皆が皆、必ずしも分かりやすい即効性のある「貢献」を求めているわけでもないが、ことばは一人歩きして誰かにとっての価値尺度で消費され、時に一般化の暴力装置としての機能を果たす。
自分にとって理解できるものが「正しい」とは限らない。
個人なのか、社会なのか、文化なのか。
自分なのか、他者なのか、地域なのか、国なのか。
現実は残酷に圧倒的なまでの猛威をふるい、いとも容易く変化を強いてくる。
それは、時に自然であり、時に人であり、時に社会だ。
個人の道徳、社会の規範、文化の慣習はあらゆる側面で繋がり、影響を与え合うからこそ、できることなら多角的な視点を持つことが重要になってくるのだろう。
そして同時に、最終的に決断を下す個人がいる。
いったいあなたは誰でどこに向かっているのか。
その問いに応えるために、いや掘り起こして白日の下に晒す勇気を持つためにも、やっぱり今日も少し前に進んでみたいと思ってしまうんだ。