【ニューアルバム】Mr.Children『重力と呼吸』ファーストインプレッション―「居場所」と「自己」への回帰

流れる時代と残る問い

ロボットアニメの金字塔を打ち立てたと表される作品といえば『機動戦士ガンダム』でしょう。さまざまな媒体で取り上げられているので、「シャア」とか「アムロ」という登場人物がいて、ガンダムといったロボット兵器に乗って戦うアニメだというくらいの認知は一般的にあるように思われます。

ロボットアニメとは男心をくすぐるなんてありきたりな表現をされることがありますが、かくいう僕も小学生の頃からガンダム、とりわけ「ファーストガンダム」には目を奪われてきました。ただのロボットアニメではなかったんです。ガンダムが描いたもの、それは「青春群像」でした。一見、平和に暮らしていた青年たちは無情な戦争に巻き込まれる中で、親を失い、友を失いながら、やがて当事者としての自意識を持つさまざまな葛藤と争いの連続を体験していきます。

第一話の冒頭は突如、宇宙世紀という人類が宇宙に進出し、宇宙都市と地球圏による戦争の中で総人口の半数がなくなっている状態から始まるわけです。

人類が増えすぎた人口を宇宙に移民させるようになって、既に半世紀が過ぎていた。地球の周りの巨大な人工都市は人類の第二の故郷となり、人々はそこで子を産み、育て、そして死んでいった。

宇宙世紀0079(ダブルオーセブンティナイン)、地球から最も遠い宇宙都市サイド3はジオン公国を名乗り、地球連邦政府に独立戦争を挑んできた。この一ヶ月あまりの戦いでジオン公国と連邦軍は総人口の半分を死に至らしめた。

人々はみずからの行為に恐怖した。戦争は膠着状態に入り、八ヶ月あまりが過ぎた。

そうした始まりから戦争の当事者として各々の守るべきもの(友人、恩人、プライド、復讐)を貫き、1年足らずで戦争は地球連邦の勝利で終わります。

続編である『機動戦士Zガンダム』では成長した元主人公アムロがこうつぶやきます。

人は同じ過ちを繰り返す…まったく。

どうにも幼心(といっても確か中1かそこらだったような気がしますが)にガンダムの名言として今でもふと思い出すのがこのセリフなんです。

あれもこれも問題

そんな漠然としたある種の呪縛のようなものが、いつのときも時代というものは絶えず変化していく中で、「良い」ものとして発展していく側面もある一方で、新しい「問い」としての問題が浮上するのは世の常なのではないかと思わせてしまうのかもしれません。

「何かこうすればこういうふうに良くなるんだ!」

と主義主張を実現させたとしても、そこには否が応でもなくまた新しい別の問題が浮上してしまうということ。

目の前にある問題は山積みです。

あれもこれも問題でみんなそんな問題をどうにかしなければならないと騒ぎだてます。

なぜなら、それは個人としての問題ではなく「社会」としての問題として還元せざるを得ないためです。

それはその通りで、個人だけに問題は帰すことができずに、社会的な関係性の中で形作られたもの中で制度があり、法律があり、組織があり、そしてさまざまな力関係が生まれます。

少しでも各々の権利を確保するために人類がさんざんと言論も行動としても活動を続けてきた中で確保し、築き上げたのが今の現実です。

そうした過去を振り返ってみれば確かに、僕ら人類はとてつもなくアップデートされた環境下の中で、今の生活を享受しているわけです。

もちろん、そうした状況にあやかることができる地域というのは南北問題と言われるようにかなり個人・地域・国によってばらつきがあるのもまた事実なわけです。

信頼指標への変化

目覚ましい発展はテクノロジーとともにグローバル化を加速させていきました。

古くは産業革命時代の蒸気機関車の発明や、冷凍輸送の発明により、農作物の国際的な取引が行われるようになり、高速道路、飛行機の登場はさらに僕らのライフスタイルを変革させているわけです。

比べようもないくらい便利な世界で、かつ権利も保証されている現代日本において、ちょっと目を凝らせば必ずしも上手く言っていることばかりではないことは明白です。

ですが、そうした現状というのはある種、歴史的な変遷を経て構築されてきてしまったもので、こうした自体に生まれてから直面する子どもたちにとっては、なんとも言い難い難しい局面に迫られてしまっているように思ってしまいます。

例えば、日本においてはさまざまなエンターテインメントであふれていて、そうした享楽に親しむことは一種の社会的に作られてしまった構造を強化することにつながります。

一方、必ずしも今は「消費者」「生産者」として二項対立的に分け隔てられる関係ではなく、当事者にとしての交渉をすることによってや、企業側でもマーケティングも1.0から3.0へと価値指標型にシフトしていく側面が出るといった変化をもたらしているわけです。

そうした文脈の中で、昨今賑わっているのが評価経済社会といったSNS時代を背景に持ちつつ、「信頼指標」の変化が起こってきているのがクラウドファンディングなどを通して形になってきています。

こうした変化は大手クラウドファンディングサイトの創始者である家入一真さん著作の『なめらかなお金がめぐる社会。あるいは、なぜあなたは小さな経済圏で生きるべきなのか、ということ。』やタイムバンクという時間の取引をできるサービスを立ち上げた佐藤航陽さんの『お金2.0 新しい経済のルールと生き方』で語られていることかと思います(すみません、まだ未読です。)。

つながりの中の信頼

「資金調達の民主化」を唱えながら、弱者の側の視点に立った発信をしている家入さんには特に注目しています。

昨今の仮想通貨バブルやその周辺の言説も適宜見ていますが、結局のところ、一定の勝ち組になりたければ新しい価値指標としての「信頼」を作っていこうという流れになっていて、ではそうした信頼は誰からのどんな信頼なのかというと、ある集団内の価値観にやや閉ざされガチなコミュニティになってしまうのかもしれません。

生存戦略と問い

部分的にはそうした流れになるかと思いますし、ある意味ではより多様な価値観が包摂される社会になるということになりそうです。

「自分らしく生きる力」という意味での教養が大切だと考えている僕はそれはそれで「良い」ことだと思っています。

が、一方で、信頼を得るための「利害関心」が暮らし、仕事に関わらず求められガチにもなることを意味すると思っていて、それはそれである種の「コミュニケーション能力」を要求する言説が強まっていることを考えると何か釈然としない思いも抱いてしまうんです。

これまで大学が果たしてきた機能の一つに日本流の社会包摂的なものがあったと思うのですが、頑張ってよい大学に進学したとしても、勉強だけでは上手く立ち振る舞えない社会になりつつあることも示唆されているのではないかと考えてくるようになってきました。

勉強というのは既存の知識を学ぶことですが、大学で学ぶのは研究することで既存の知識をアップデートするためというのがこれまでの主流な考え方にあったかと思います。

ですが、今では「専門職大学」という職業教育としての意味合いが込められた大学が登場してきています。これは中世ヨーロッパにて教会権力の闘争の中で次第に没落していった大学から、アカデミーやグランゼコール(フランス)が登場してきた流れとどこか重なります。

常に成長し先にいくために時代的な変遷の中で人はそれぞれの守るもののために、選択してきた結果の総体がこれまで書いてきた(かなり部分的であるには違いない)ことでした。

守るものは、生活かもしれない、暮らしかもしれない、伝統かもしれない、地域かもしれない、国かもしれない、思想かもしれない、アイデンティティなのかもしれません。

連続的な関係性を生まれた時点で否が応でもなく、つながっている僕らにとって、変わっているものと残っているものはなんなのかを考え続けていきたいですし、その上でちょっとでも行動し続けていきたいと思っています。

こうした中、変化するものには分かりやすく反応することができますが、変わっていく中でそれでも残っている「問い」を浮き彫りにすることの意義というのも提議していくことも大切なのではないかとも思うんです。

どこか分かりやすい、聞こえのいいものばかりに動かされてしまう人が多いなとこれまで生きてきた中で感じるのですが、流行を追うことも然ることながら、背景にある問いを変化に応じて捉え直し、編み直していくことの意義はどこか置き去りにされているのではないでしょうか。

とりとめもなく思うことをつらつらと書いてみるのでした。

はい、卒論書きます。