【ニューアルバム】Mr.Children『重力と呼吸』ファーストインプレッション―「居場所」と「自己」への回帰

ガンダムとジョジョと卒論と―歴史から学べる僕らの”分かりあえなさ”について

もう一つ、僕の専門分野であるディスコース研究を紹介・解説しているサイト『Discourse Guides』で卒論の概要を紹介する記事を執筆しました!

参考 卒業論文「批判的談話研究を用いた文系学部廃止論争の分析」の概要Discourse Guides

この論文には様々なこれまでの蓄積が詰め込まれているんです。

ですが、ちょっとひと目読んだだけじゃそれは分からない!

というわけで、先日卒業が決まった筑波大学国際総合学類に入った最初のきっかけとも言える『機動戦士ガンダム』から、人生のバイブルとも言える『ジョジョの奇妙な冒険』を通して僕が学んだことをまとめてみたいと思います。

機動戦士ガンダムとは

通称、ファーストガンダムと呼ばれるロボットアニメに金字塔を打ち立てた作品の冒頭ではこのようなナレーションから始まるんです。

ここで注目してほしいのが、増えすぎた人類(宇宙世紀0079においては100億人を越えているという設定)を宇宙に進出させたことがきっかけとなって戦争が巻きおこっているんですね。

実はこの移民している層の大半が「貧困層」であったとされていて、この宇宙移民計画は棄民政策とも呼ばれていました。そんな宇宙に進出した人類が住むとあるコロニーが地球圏に対して自治権を訴えることから一年間に渡って続いた戦争である「一年戦争」が勃発します。その戦争が始まってから八ヶ月経ったところから始まるのが、ファーストガンダムの物語なんです。

どうでしょう?すでに、「えっ、そんな込み入った話だったの??」なんて飛び上がっている方もいることでしょう。

そうなんです。実に国際問題的なものを背景に描かれているのがファーストガンダムなんです。

重厚な設定をバックに描きつつ、物語で描かれるのはそんな戦争に奔走されながら成長を遂げていくジュブナイルアニメでもあるんです。少年アムロが戦争を通して仲間を守り、独りよがりにもなり、親父でもない人に殴られた、初恋の人を亡くし、敵味方の怨念が入り乱れる戦場を駆け巡りながら、時に無力感といったどうしようもない大きな物語に揺られつつ、青年になっていく物語なのです…

それまでのロボットアニメでは「勧善懲悪(善を勧め、悪を懲らしめる)」型の物語が大半だったんですが、徹底したリアル志向や物語の重厚さもその特徴に挙げられます。さらに、物語に色を添えたのが、終盤にかけて大きなテーマとなっていくニュータイプという概念でした。

棄民政策として宇宙に上げられた人間が、宇宙に進出したことによって「精神的共感能力」が高いニュータイプとして進化する人びとが現れてきたんです。その一人が主人公アムロであり、宿敵シェアだったのでした。しかし、そんなニュータイプでさえも、結局は戦場で争いを繰り広げていきます。ガンダムの物語は基本的にこの「分かりあえなさ」を一つのテーゼとして常に描かれていくんですね。そんな作品を幼心に見ていた僕が学んだことを一言で集約したのが下の格言です。

こうした悲観的な思考を根っこに僕が持ってしまっているのは、とにかくガンダムの影響が大きく、どこか現実主義的なまなざしを忘れないのも関係しているような気がします。ですが、ガンダムのポイントは、「大人」や「権力」に翻弄されながらも、青少年が抗い続けていく物語でもあるということなんですね。ファーストガンダムに続く物語でもある、『ユニコーンガンダム』の主人公は「それでも!」ということばとともに相対する大人に立ち向かっていきます。

ユニコーンは「”可能性”の獣」と物語で語られるのですが、この「分かりあえなさ」と「可能性」はどこか相矛盾しつつも、順繰り返されていく人の性として解釈してきました。実際、コミュニケーションというものを研究対象としている僕としても、研究として一意的な意味を定義づけようとする厳密性と、話者の意図のみならず携わった人の価値観や知識という文脈とともに多様に解釈されうる、と考えると実にしっくりくる考え方だったんです。

相矛盾したあり方で居続けることを僕はガンダムを通してインストールされてしまったんでしょう。

ジョジョの奇妙な冒険とは

さて、そんなませた考えを中学生ながら染み込んで持ってしまった僕は高校にてもう一つのバイブルと出会います。それが『ジョジョ』です!

なんと既に100巻以上を刊行している長寿マンガなのですが、物語は「ジョースター家」と宿敵「ディオ」との因縁の戦いが世代を越えて紡がれるんですね。

ちなみに
部ごとに、主人公も戦う舞台も変わるちょっと一風変わった作品で、現在は8部「ジョジョリオン」がウルトラジャンプで連載中。「ジョジョ」というのは主人公たちの名前をつなぎ合わせると「ジョジョ」と略すことができるから。

さて、そんなジョジョシリーズで一環して描かれるのが「人間賛歌」です!

「人間の素晴らしさ」を称えるのが人間賛歌なのですが、ジョジョとガンダムで共通しているのが、この人間へのこだわりですね。逆にそれがない作品というのも珍しいかもしれませんが、ジョジョでは初期に登場する「吸血鬼」やその上位生物と肉体美、そして中盤以降に作品の代名詞となる「スタンド(個々の精神エネルギーが具現化したもの)」を通して、ひたすらに”人間の超越”が強調して描かれてるんです。

そんな人間賛歌を一言で表すなら、登場人物たちみながみな「自分を生きている」んですね。争い合う中でも、その生きることに対する個々の執着は尋常じゃなく、敵であれ時に敬意を示し合う中に人間の美しさを僕は感じ取ってしまうんです!

例えば、第7部の主人公は父のことばとして頭に残る「感傷」を、己の人生をかけた「納得」を求めるために、超越していきます。

また、こちらは第4部のラスボスとして圧倒的な強さを持つ街に潜む殺人鬼の覚悟。人を殺さずにいられない性を持ちつつも幸福に生きようとするその姿勢に、作者さえも応援してしまうほどの生命力を僕もまざまざと見せつけられてしまいました。

そんなジョジョでは、ただひたすらに己の美学も持って生きる姿と、歴史的に繰り返される人の栄枯盛衰を学んでいったのでした。

まとめますと、ガンダムからは「分かりあえなさ」と「可能性を信じるしつこさ」を学び、ジョジョからも「納得を持って生きること」と「それぞれを尊重する勇気」、そして全体として「コミュニケーション」によって僕らの生はどこかの誰かと繋がっていることを思考の根っこに持っていくようになったんです。

卒論―批判的談話研究を用いた文系学部廃止論争の分析

「で、卒論は?」って話なんですが、僕は文系学部廃止論争というものを批判的に分析するというものを行いました。

参考 卒業論文「批判的談話研究を用いた文系学部廃止論争の分析」の概要Discourse Guides

文系学部廃止論争というのは、2015年に文部科学省が国立大学に対して「人文社会科学系学部・大学院や教員養成系学部・大学院」を「廃止、もしくは積極的な転換を」という文言を記述した文章を送ったことから、起こった論争のことを指してます。

社会言語学分野の中でも、「抑圧をもたらすテクストを批判的に分析する」ことを目標とした批判的談話研究(Critical Discourse Studies:CDS)という分析アプローチを使いました。

一言で文系学部廃止論争の問題をあげるなら、財源を握った文科省が国立大学に対して権力を振りかざしている構図になっていることなんですね。

文系学部廃止論争で興味深いのが、文科省と研究者の代表者組織である日本学術会議は意見は一致している(人口減少社会に対応する etc.)のに、議論がすれ違いをしていることなんです。そこで、文科省と日本学術会議のやり取りを詳細にテクスト分析したわけなんですが、分析結果を簡単に表現すると以下のようになりました。

要するに、文科省は自分の意見や論理を頑なに主張する中で、日本学術会議は世の中の様々な価値観を持った人や組織と対話する重要性を強調しているんです。

意見が同じ、正当であっても、相手の言い方によっては受け入れ難かったり、イラッときてしまうことってありますよね?そういうことは対人だけでなく、社会的にも起きている一つの好例なのではないかと思います。

結局のところと言いますか、昨今の時代変化が激しい&経済不安が漂う中で、大学の存在意義が問われていたのが表出した論争だったと思っています。「学問」というのはこれまで権威の象徴でもありましたが、今では多くの人が書物を通じて、ネットを通じて触れることができます。ですが、それは限定的な知識であることが大半で、その中身を紐解けばもっともっと厳密なコミュニケーションを研究者が紡いでここまで発展してきたわけですね。

そうしたことが、あまりにもおざなりにされている昨今の様子を見ている、もちろん見ているだけじゃなく体感している身として、ガンダムやジョジョを通して培ってきた自分の価値観と学問が集約されたのが今回の卒論テーマだったのでした。

「じゃあ、肝心のあんたは”大学”をなんだと思っているのか?」と問われれば、大雑把には次のように応えます。

おわりに―人類的普遍性と平和

ガンダムやジョジョで繰り返されるのが争いで、そこには常に「人間」が介在しています。

どこまでもどこまでも、「あー、僕らは人間なんだ」ということを痛感してきてまして、だからこそ「良い部分」「悪い部分」もあり、そうした解釈性こそがコミュニケーションの根幹としてあるんじゃないかというのが僕の基本的な思考です。

もちろん、なんでもかんでも「みんな違ってみんないい」とは思ってなくて、「みんなが違うからこそ、それを讃えつつ、人間であるからこそ”良さ”を考え続けたい」と僕は考えているんですね。

非常に無理難題で、時に身を引きちぎられそうな思いに駆られることも多々ありました。

しかし、またそれも一興。

僕が学問に身を捧げつつあるのも、「諦めの悪さ」があるからこそなんです。もう「諦めることを諦めた」というところにまできてしまいました。

思うに、こうした「人間の諦めの悪さ」が、「良さと悪さを考え続ける」文化を作り続けてきたんじゃないかと思うんです。

哲学者の中にはそんな「バカ」なことを、ひたすら、ひたすらに考え続けてきた人もいます。その歴史的な積み重ねの中で、なんとか今の人間の社会が紡がれていると思うと、僕はこれはこれで「考え続ける」という「平和」を実現する一助になっていると思うんですよ。

もちろん、「そんなの戯言だ」「世の中、拓実な政治的やり取りとお金っていう権力で動いているんだぜ」ということができることは分かっています。分かっていますが、そんなのこれまでの歴史から栄枯盛衰があることを知っていると目くそ鼻くその価値観で、どうせいつか死ぬし、それをしたからといって、哲学者がこれまで何百年と考え続けてきたことほど価値のあるものとして残らないと思ってしまいます。

でも、きっとそうした多様なあり方が前提にありつつ、だからこそ「それでも」と考え続ける人が生まれ続けるのでしょう。ならば、僕は「賢い大人」であるよりも、どこまでも足掻き続ける「諦めの悪い子ども」で構わないんです。

それが、僕にとっての「ニュータイプ」であり、「人間賛歌」であり、「学問的態度」であり、「平和」への道なのだと思います。

哲学者、ここでは哲学だけに限定されずに広く学問を行う人にとって、純粋な好奇心なく、自分の殻を打ち壊すことをし続けることはできないでしょう。学ぶということは、知らないことを知るという、実に恐ろしく、勇気のいる営為なんです。

今改めて、卒業間近にして、いつかの自分がこの文章を書いた時を忘れないように、書き記しておきたいと思います。

来年度からは、大学院に進学です。

卒業確定&大学院に進学します!

同大学の人文社会科学専攻科国際日本研究専攻に進学します。

より踏み込んだ、社会文化コミュニケーションについて理論と実践を紡ぐあり方を探れればと。

一歩一歩がんばります。

ではでは~!