先日、映画『この世界の片隅に』に心揺さぶられた。

記事を書き終え、音楽を聞きながらゆっくりしていた時に重なったのがMr.Children『タガタメ』が流れ、その歌詞の中で語られるとある一節が『この世界の片隅に』で語られるメッセージとリンクしたことに気づいてしまった…!
Mr.Children『タガタメ』とは
ミスチルの『タガタメ』は日進カップヌードル”NO BORDER”のCMソングとして使われた曲でもある。
収録されたアルバムは僕が全アルバムの中で最も好きな『シフクノオト』で、さらにそのトリを飾る曲がこの『タガタメ』!
演奏時間は約7分となかなか長い。印象的に何度も歌われる「タガタメタタカッテ(誰がため戦って)」「カタタタキダキアッテ(肩たたき抱き合って)」などがやたら頭にこびりついて離れない曲だ。
この曲、一部からは作詞者である櫻井さんの反戦を示すメッセージ・ソングではないかなどと囁かれてもいる。
どことなく、暗い調子で櫻井さんの叫びが徐々にボルテージが帯びていくのだが、実はこの曲にはポップな別バージョンとしてシングル『HANABI』にて『タダダキアッテ』という曲も作られている。
しかし、僕が好きなのはこの元祖『タガタメ』だ!
この歌詞には幻想的なトーンから感情のこもった思いが伝わる『タガタメ』の方断然似合っている!
僕はそう思っている。
「この世界のあちこちにいるわたし」と『タガタメ』歌詞
マンガ『この世界の片隅に』の冒頭はこんなことばから始められる。
「この世界のあちこちにいるわたしへ」
どこまでも平凡な主人公「すず」という人間を通して描かれた通俗的な「戦争」というものが『この世界の片隅に』という作品では一つのテーマとして描かれているからこそ、浮き彫り上がるような言葉であり、重要な部分なのだと思う。
実は、『タガタメ』の歌詞でもそれと親しい歌詞が登場しているので今回ぜひ紹介したい。
左の人 右の人
ふとした場所できっと繋がってるから
片一方を裁けないよな
僕らは連鎖する生き物だよ
ちょっとわかりづらいかもしれないので僕なりの解釈を説明しましょう!
『タガタメ』歌詞の解釈
僕らという存在はいったい「何者」なのか?
その問にはいろんな答え方がある。
ある人は「物理学的に分子、原子、あるいはそれ以上ミクロな世界の分析」を通して応えようとし、ある人は化学組成、ある人は遺伝子、ある人は社会、ある人は心理、ある人は信仰、ある人は哲学からこれまでさまざまな答え方が生み出されてきた。
今回、僕が示したい応え方は「哲学」だ。と言っても「哲学学」ではない1)・「哲学」はその人の生き様から湧き上がるようなその人独自の問とそれを突き詰めた上での信念・真実
・「哲学学」はいわゆるヨーロッパ「精神史」と言われるような学問的なもの
※ ソクラテス、デカルト、カント、ニーチェといった西洋思想から東洋思想といったもの。簡単に言えば、学校で学びテストに出るような哲学

僕が僕としてあるためには、「他者」がいなければならない。
というのも、僕が生まれた瞬間、いやそれ以前にもすでに僕を生む両親がいて、その両親にもまたそれぞれ両親がいる。
そして、生まれ育つ環境に埋め込まれ、友人・知人・師と出会う場である学校に赴き、地域社会と関わりを持たざるを得ない。
いや、それ以前にそもそも「僕」という言葉そのものが他でもない「他者」を浮き彫りにしている。
だって、言葉がそもそもあるのも名前をつけることで分けるためなのだから、「それ以前」はいわばごちゃまぜな世界が前提としてあったわけだ。
ちょっと分かりづらいかもしれないが、例えば自分がどのようにしてあるかちょっと考えてみて欲しい。
自分の抱いた考えは本当に「一人」で編み出されたものだろうか?
必ず、そこには誰かとの接点があって紡ぎされた思考であるはずだ。
そういった意味で、『タガタメ』で歌われる「左の人 右の人 ふとした場所できっと繋がっている」「僕らは連鎖する生き物だよ」という部分が導きダレることができるわけである。
『この世界の片隅に』のメタ・メッセージ?
『この世界の片隅に』において描かれた「この世界のあちこちにいるわたしへ」は今回説明した哲学とはニュアンスは違うと思う。あくまで、表立ったメッセージとしては平凡な日常と戦争だろう。
だけど、ここで発せられているメタ・メッセージ(メッセージの裏)に本来的には「他者とつながる自分」というものがあるんじゃないかと感じた。
なぜなら、その方が面白いからだ!
最後に
子供らを被害者に加害者にもせずに
この街で暮らすためまず何をすべきだろう?
でももしも被害者に加害者になったとき
かろうじてできることは
相変わらず性懲りもなく
愛すこと以外にない
これは、『タガタメ』の最後に歌われる歌詞だ。
仮に連鎖する生き物である僕らは片一方を裁けないのであるならば、最後に残された選択肢は「愛すこと」以外にないのだろうか…?
僕には未だ、愛がなんだかわからないし、まるでマジックワードのように使い古された便利な言葉として片付けれられてしまうことに違和感を持たなくもない。
それと同時に、「寛容性」という言葉に置き換えられるような「愛」の重要性を感じたりもする。
なんだか、宗教臭くなってきてほぼ同じタイミングで観た映画『沈黙』も思い出す…

うーん、分からない!
では~
注釈
⇧1 | ・「哲学」はその人の生き様から湧き上がるようなその人独自の問とそれを突き詰めた上での信念・真実 ・「哲学学」はいわゆるヨーロッパ「精神史」と言われるような学問的なもの ※ ソクラテス、デカルト、カント、ニーチェといった西洋思想から東洋思想といったもの。簡単に言えば、学校で学びテストに出るような哲学 |