今回読み終えたのは、ヴィクトール・E・フランクル著の『夜と霧』。
名の知れた名著とのうわさを聞いていたので少し楽しみにしていたのですが、学問としての心理学の本というよりは、精神分析学といった著者による悲惨なルポ体験というイメージは終始ぬぐえない本ではありました。
それぞれの苦労
ども!飢餓とは程遠い現状にいながらも、タイやインドで生活に困窮した人々を見た体験が脳裏をよぎるとしちる(@ture_tiru)です。
世界には自分が想像だにしないような、たとえ想像できたとしても原体験に比べれば、まったくといっていいほど未知の世界が広がっていることだろうと思います。
そんな知っているようで知らない経験を、東南アジアを巡る中で少しは見えてきました。
ですが、当然ながらまだまだ知らない・わからないことだらけで、時に如何に自分が平和のぬかるみに浸かっているのだろうと思うこともあります。
と言っても、そこにはそこなりの苦労がまたあるわけですけども。
『夜と霧』概要
この本は初版ではなく改訂版を新たに日本語訳にしたものだそうです。
原著の初版は1947年、その日本語訳が1956年。
改訂版の初版が1977年、そしてその日本語訳である本著が2002年に出版という流れになっています。
日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万部を売り上げ、アウシュビッツ強制収容所で起きた惨劇を当時心理学者(アドラーやフロイトに従事した経験を持つ精神分析学者であり、現代における科学的な心理学とはまた異なる)であった著者フランクルが、「収容所に入る前、最中、出所後」という3段階に渡る心理の変遷を書き綴ったものです。
翻訳:池田香代子
出版:みすず書房
発行年:2002年11月5日
▼目次
- 心理学者、強制収容所を体験する
- 第一段階 収容
- 第二段階 収容所生活
- 第三段階 収容所から解放されて
読書感想―学問的には思えなかった
どこで見聞きしたかは忘れてしまいましたが、この『夜と霧』というタイトルはなかなか僕の耳に残り、いずれ読んでみたいなと気になっていた本ではありました。
が、もう少し学問的な本かと思っていたのですがどうにも、如何に悲惨であったかという状況を淡々にというよりもむしろまざまざと書き綴ったもので、心理学的な分析が精緻にされているという印象はあまり受けませんでした。
というのも二つの点からある程度はしょうがなかったのだろうと思います。
初版が1947年と出所後すぐに執筆されたこと
先ほども書いた通り、出版が1947年と第二次世界大戦が終結した1945年からわずか二年ばかりの出版でした。著者のフランクルは収容所内での生活を世に出てこの体験を書き綴ることに希望を抱き、それが彼にとっての一つの心の支えだったことを考えると、このようなスピード執筆はある意味で彼にとっては急務だったのだろうなということが想像できます。
鉄は熱いうちに打て的なあれかなと。
そうした状況下で書かれた本は、どうしても細やかな分析をするというものよりもやや主観的な記述が多くなってしまうのは仕方なかったように思えます。
むしろ、この本のすごいところはアウシュビッツに収容された極限下においても生き抜き、かつ経験をした者にとっては目をつむりたくなるような内容を冷静に描き切ったことにあると言えるのでしょう。たぶん。
学問としての心理学
何をもって学問とするのかは難しいところです。
心理学というのも有名ではありますが、フロイト・ユング・アドラーといった面々は今では心理学というよりも精神分析や思想の類に分類されるのではないでしょうか?
現在の心理学では統計的なデータや脳科学といったより精密な内容を基礎的な心理学とおいて、応用的な心理学が展開されていたりします。
そうした中で、当時の時代がどこまでそのような学問観があったのかはわかりませんが、フロイトやアドラーから教授を受けていたという情報からだと現代的な心理学とはいえない領域での学者であったのかなと思いました。
学問というよりは生き抜いた者の人生観が描かれている
具体的なフランクルの実績は分かりませんが、彼が生きるか死ぬかの極限の状況に追い込まれながらも医師としての役目であったりだとか、彼なりのアウシュビッツでの生活における人生論を収容所の仲間に説くなどたくましい強さを持つなと思う一方で、学問とは言えないような人生観を賛歌してしまっているのには少し違和感を覚えます。
明日生きられるかもわからない、いつ死に追いやられるかもわからない、いつ終わるのかもわからない、どこに生きる意味を見出せばいいのかもわからないような状況下でありながらも、人は必ずしも環境に屈しきるわけではないところに強調しているところがあります。
強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りにだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったことを証明するには充分だ。
また、人生に私たちは問いかけられているという場面。
生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。
こうした言葉はアウシュビッツの悲惨な状況下を経験した著者にとっては真に迫るものだと思いますし実際そのような側面はあるのだと思いますが、
「なぜ、そうだと言い切れるのか?」
ということに真摯に答えようとする姿勢はあまり見えませんでしたし、そのような自身に対する批判的な言及もありませんでした。
というのも、本文で心理学をやたら強調したりしているのですが、その具体的な記述はこの著作の中ではほとんど見受けられませんでした。もし「心理学」を強調して書くのであるならば、一般書とは言え、それなりの記述があっても良かったのではないかと思います。
まとめ
以前から気になっていた本を読み切れてそれなりに満足だったのですが、少し期待値が高かったかなと正直に思います。
ですが、実際どのような状況にアウシュビッツ強制収容所があったのかということが、体験者からこうして文章として語り継がれ、読むことができて良かったです。
なぜファシズムが起きてしまったのか?という問いは「言説」を分析したいと思う自分にとっても重要な問いの一つです。
今後もまたいろいろと読み継いでいきたいと思います。
では~