今回、取り上げる本はこちら!
「教養」をテーマに掲げるこのブログにぴったりの本ではないでしょうか!
というわけで丁寧にご紹介したいと思います。
タイトルの意味
原題は「Representatations of the Intellectual」。
日本語に訳すと「知識人の表象」、「知識人の代弁・主張」とも言い換えられるそう。
しかし、知識人や表象と言われてもピンときません。
ですのでここでいつもの辞書的な定義を見てみましょう。
【知識人】
高い知識や教養がある人。知識階級に属する人。インテリゲンチャ。知識者。
【表象】
③哲学で意識の中に現れてくるものやその内容。
④心理学で、直観的に浮かぶ感覚的な心象。
※①と②は省略
引用:『精選版日本国語大辞典』
表象ってのは辞書を見ても分かりにくいですねぇ。
これを訳者は質問形式の「何か」ということにすることで、知識人は○○といった主張をするという意味も表したそうです。
見事な訳だなぁと思いました。すごい!
「はじめに」概要
この本はイギリスBBCが開催しているリース講演にてサイードが述べたものを基にしてできているそうです。
「はじめに」では、そうした講演を引き受ける背景や、当時の状況がサイードによって語られ、これからの内容がどのような文脈で語られたかについて話しています。
また、簡易的にサイードが考える「知識人」像についても語られています。
表紙にも書かれている「知識人」についての端的な言葉もありました。
「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」P20
このままでは意味が分かりません!
「第一章 知識人の表象」では後半の「権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」について語られていきます。
「第一章 知識人の表象」概要
大まかに二人の学者についてそれぞれの「知識人」論を紹介しながらも、サイードの「知識人論」が語られます。
アントニオ・グラムシの「知識人」
政治哲学者であるグラムシは「今やあらゆる人が知識人と呼べるのではないか?」と言います。
そしてそれは二種類の「知識人」に分けられるそう。
①伝統的な知識人
教師など同じような知的仕事に従事し続けるような人々。
②有機的知識人
資本家といった、知識人を利用してのし上がろうとする人々のことだそうです。
グラムシの分析の特徴に社会的な分析であると指摘しています。
ですから、わかりやすいし現実で思われている知識人像に近いというわけです。
ジュリア・バンダの「知識人」
グラムシに対し、バンダの知識人像は道徳的役割が重視されている見解です。
サイードはバンダの考え方に近いです。
バンダの言う知識人とは、彼が「知識人」を「clerics(聖職者)」と表しているように、ただ知識を持つ者を指すのではなく、形而上的な思索にも喜びを見出し、さらには弱き者を助けることこそが真の「知識人」だとしています。
そのため、知識人はそれなりのリスクを払う覚悟が必要であり、その人数は多くないと述べています。
サイードの「知識人」
サイードが考える「知識人」とはこの一節が分かりやすいかと思いました。
「わたしにとってなにより重要な事実は、知識人が、公衆に向けて、あるいは公衆になり代わって、メッセージなり、思想なり、姿勢なり、哲学なり、意見なりを、表象=代弁(レプリゼント)し肉付けし明晰に言語化できる能力にめぐまれた個人であるということだ。」P37
このようにサイードは、バンダと同じように「覚悟」が必要であると述べています。
そして、ただ公的な知識人としてあるのではなく、様々な背景や目的を持った個人として代弁しようとすることが何よりも重要だとしています。
そのような例として、社会的活動に従事することが重要だと説き、自らも積極的に活動を繰り広げた希有な哲学者サルトルを挙げています。
C・ライト・ミルズが考える「知識人」の状態
また、サイードのは自身の考えをより強く主張するためにC・ライト・ミルズの考えを紹介しています。
ミルズは、知識人は二つの状態に直面していうと述べます。
①周辺に追いやられ、一種の意気消沈状態。
②グループの一員としての立場につき、責任を避ける状態
しかし、このような状態では、知識人に必要不可欠な「効果的な意思疎通」、つまり情報発信や議論をする機会がどんどん奪われていると危機感を表しているそうです。
そんな状態だからこそ、「政治の世界では、知識人の連帯と努力が優先されなければならない」としています。
サイードによる再びの主張
そこで、サイードはミルズの主張を援用し、知識人が政治的な力に対抗していくことの重要さを説いています。
なぜなら、政治からは誰も逃れられないからです。
こうした主張の前提には「大衆」と「個人」の対立があることをサイードは指摘します。
サイードが考える知識人とは「個人」として批判的センスにすべてをかけていく人物だと強調されます。
決して調停をするような者ではないと。
こうした「意志」を忘れずに使命を果たすべき者こそが「知識人」であるというわけだそうです。
「第一章 知識人の表象」感想
なかなか厳格な考え方ですねー。
ですが、サイードの言いたいことは分かるような気がします。
サイードは「道徳」的に弱き者を助けることを重視しています。
そしてさらに助けるだけでなく、その努力をし続けていくことを最後に強調してもいました。
なぜなら、そうした努力には終わりがないからだそうです。
確かに現実に起きている問題というのはキリがないですよね。
例えば、日本はひとまず平和な国になったといえるかもしれませんが、そうともいえない側面はまだまだあります。
日常にさも当たり前のように流れるニュースの数々。
日本だけでなく、世界に目を向ければもっと悲惨な現実が繰り広げられています。
ですが、サイードも現実における困難さを忘れているわけではありません。
概要編では書きませんでしたが、サイードは3人の小説家が書いたストーリーに登場する人物の「闘争」を紹介して理想を追う現実の厳しさをほのめかしています。
サイードが強調し続けているのは「知識」そのものではなくその「態度」でした。
これはどうやら後の章で語られる「亡命者にて周辺的な存在」や「アマチュア」といった話に続いていくようです。
この本を読みながらある本を思い浮かべました。
この本では「すべての人が強く生きることはできない。だからこそ優しいリアリズムが大切なのだ。」といったことが述べられていたかと思います。
※すみません。まだ積読中なので間違っているかも…?
確かに、みんながみんな生活を投げ捨てて「弱き者を助ける」なんてことはできないですよね。
じゃあどうすればいいかって言ったら、それぞれの「自由」を認めて、強き者はその力ゆえにサイードが言うような真の「知識人」としての「責任」が必要になってくるということでしょうか?
なんだか「noblesse oblige(ノブレスオブリージュ)」みたいですね。
これはフランス語で「高貴なる者の義務」という意味です。
ただ、こうした考え方ってなんだかその弱き者に対する認識というのが曖昧な気がするんですよね。
だって、それぞれに「強み」があるわけじゃないですか。
だとすれば、やはりサイードが前提としている考え方にそうした「知識」や「思考力」の如何というものはありますよね。
そんなことを考えると、やっぱり問題というのは「教育」に焦点が当たってくるように思えます。
最近、教育哲学としてヘーゲルの理論を援用した「自由の相互承認」を掲げる苫野一徳という方を知りました。
「×(かける)哲学」プロジェクト:: 【対談】竹田青嗣×苫野一徳②〜「自由の相互承認」という原理〜
これも面白いので興味ある方はぜひ!
話がそれてきてしまいましたが、サイードが言う「知識人」もすごく分かるのですが「うーん、なんだか固いなー…」なんて思ってもしまいました。笑
まぁ読みながらけっこービビッときたんですけどね!かっこいいなと。笑
続く…