「ってしまった者たちから受け継いだものは さらに『先』に進めなくてはならない」は「ジョジョの奇妙な冒険 第5部 黄金の風」の主人公として登場するジョルノ・ジョバーナの言葉で、僕が一つの信条として生涯貫こうと思っていることでもあります。
ジョジョの魅力とジョルノの覚悟
まさに人生のバイブル!それが「ジョジョ」ッ!
ジョジョの何が好きかと問われれば作品全体のテーマである「人間賛歌」と哲学的な内容なのですが、溢れんばかりの愛はこの記事には収まりきらないのでまたの機会にするとしてですね、僕は特にこの「ジョルノ」が大好きなんです…!
「このジョルノ・ジョバーナには夢がある!」
「覚悟とは、、、犠牲の心ではないッ!覚悟とは!!暗闇の荒野に!!進むべき道を切り開くことだッ!」
「生き残るのは、、、この世の真実だけだ、、、真実から出た真の行動は決して滅びはしない、、、」
いやー
かっこよすぎるだろッ!!!
ところどころで使う文末の「ッ」はジョジョへのリスペクトで使っています。笑
名言の背景
そして、今回タイトルにしたこの言葉。
「去ってしまった者たちから受け継いだものは、さらに『先』に進めなくてはならない!!」
は物語の終盤での戦いが終わり、散っていった仲間を思い浮かべながらも未来への意志を示すものです。
で、その戦いで重要になるのが「レクイエム」というものなのですが、これは日本語で「鎮魂歌」という意味ですよね。
レクイエム(ラテン語: Requiem、レクィエムとも表記される)は、ラテン語で「安息を」という意味の語であり、以下の意味で使われる。
- 死者の安息を神に願うカトリック教会のミサ。死者のためのミサ(羅: missa pro defunctis)。聖公会においても行われる。
- 上記のミサで用いる聖歌。完全ミサ曲のひとつ。またそれに想を得て作られた楽曲。「死者ミサ曲」、「死者のためのミサ曲」などと訳される。「鎮魂歌」(ちんこんか)、「鎮魂曲」(ちんこんきょく)と訳されることもあるが、レクイエム自体には「鎮魂」の意味はない。
- 宗教的な意味を離れて、単に「葬送曲」「死を悼む」という意味でレクイエムという語が使われる。このカテゴリーに声楽を伴わず、ピアノ独奏とトランペット独奏を伴う室内オーケストラのために書かれたハンス・ヴェルナー・ヘンツェの作品、オルガン独奏のための「ウェービング」に始まり、様々な楽器編成のための作品がほぼピッチ・インターヴァル技法で作曲されている松平頼暁の作品、「若き詩人のためのレクイエム」と題して電子音を含めた様々な楽器編成で構成されるベルント・アロイス・ツィンマーマンの作品などがある。またレクイエム本来の典礼文と他の詩作品を組み合わせたものに作曲した例として、ベンジャミン・ブリテンの作品などがある。
- 正教会におけるパニヒダのことを、永眠者のための祈りであることの類似性から「レクイエム」と呼称することがあるが、西欧と日本以外ではこうした用例は一般的ではない。
引用元:Wikipedia
と思って一応調べたら、ちょっと勘違いしてたようです。
レクイエムという言葉自体に「鎮魂歌」という意味はなく元はラテン語で「安息を」という意味らしいですね。
3にも書かれている通り、一般的には「死を慎む」言葉として用いられているからそこまで気にするほどでもないかな?
ジョジョは基本的にバトル漫画なので、この「レクイエム」も能力の語尾に付けられるもので、ジョルノの場合ゴールド・エクスペリエンス・レクイエムとなります。
この「レクイエム」とは、能力をさらに発展させていくことを表しているのですが、ジョルノが能力を開花させるまでに多大な犠牲を伴いました。
それで能力を開花させるきっかけとされる「矢」をどうするのか?と聞かれて答えたのが「去ってしまった者たちから受け継いだものは、さらに『先』に進めなくてはならない!!」というわけです。
東日本大震災から5年
昨日は3月11日。東日本大震災からちょうど5年の月日が経ちました。
様々な人が、様々な思いの元、あの日と今を振り返ったと思います。
そこでこんな声を目にしました。
「なぜ『黙祷』するのか?その意味をきちんと考えたい。」
僕の友人でも現地で被災した人がいます。
「なんで被災してもいないやつがあーだこーだ言うのか分からない」
というようなことをボソッとつぶやいてました。
いろんな人がいますね。
「いつまでも騒ぎ立てないでほしい」という人もいれば「忘れてはいけない」と奔走する人もいます。
どちらの思いも分かるような気がします。風評被害で嫌な思いをした人、被災した当時を思い出すことはつらいことで忘れたい人、同じ過ちを繰り返さないためにと情報発信をする人。それぞれの立場があります。
僕はあの日、既に高校を卒業していたので地元にいました。普段だったら電車で1時間半弱かかる高校に通っていたのでもっと大変な思いをしていたのだと思います。
実際にそういった友人もあの日大勢いました。僕はただテレビを見、SNSを確認し、地元の町を少し様子見することしか出来ませんでした。
僕にとっての「レクイエム」
僕が考える「黙祷」とは、「鎮魂歌」とは、「去ってしまった者の意志を継ぐこと」です。
思うのですが、人は忘れます。
忘れたっていいじゃないか、その方が楽だし先に進めるとすら思います。
問題となるのは、「忘れる」とか「忘れない」とか、「祈る」とか「祈らない」ではなく、どう先に進めるかなんじゃないかって。
さらに言うなら、この文章を書いている今まさにこの瞬間だって、さらに時を越えて誰かが読んでいる時にだって、きっとどこかで何かが終わっています。
それはさも当たり前かのように、受け入れがたい現実かのように。
僕も15年ほど飼っていた猫の死に目に会えませんでした。今にも死にそうな様子で幼稚園の駐車場で出会った猫でした。僕の両親がたまたま迎えに来てくれていた時だったので、そのまま飼うことになり気づけば僕らの支えとなっていました。
もちろん、悲しかったです。
今でもふと思い出して、もう会えないのだなーと物思いに耽ります。
ですが思うに、それでもやっぱり「プリン(猫の名前)」は僕らの中に確かにいるんですよね。確かにもう生きてはいないけども、それでも関わりがあったことは事実なのだと思います。
何にでもいつか終わりがきますから。
それはどのような形で訪れるかなんて分かりはしませんけど、確かにいたことは消えないんですよ。
それだけあれば十分なんじゃないかって思うんです。
だから、むしろそうした一つひとつの「終わりと始まり」を祝福したい。
「始まり」だけでなく「終わり」あってこその「生」なんですよきっと。
僕の中にいるのは「プリン」だけじゃなくて、きっとなんだってそうなんです。
これまで偉大な発見をした科学者だって、市井を奮い立たせ権力と闘ってきた革命家だって、そうした名もなき人々だって、己にとって万人にとって何が「真」なるものか見つめ続けてきた哲学者だってみんなそう。
そうした一つひとつの物語の重なり合い、その螺旋階段の途中として僕も同時に存在しているんじゃないか。その螺旋を登りながら何かを託して終わりを迎えるのが僕にとっての「鎮魂歌」なんです。
それは決して過去だけでもなく今でもなく、未来だけでもない。
そう思って何かを残せないだろうか?と日々生きています。
もしこのブログで書かれたことが、それだけじゃなく僕の一挙一動が何かに繋がればいいなーと思う今日この頃です。
では~