本日、知人の紹介で日本サイエンスコミュニケーション協会の年会に参加してきました!今年のテーマは「サイエンスコミュニケーションとその社会との関わり」とのこと。
僕は会員ではないのですが、サイエンスコミュニケーション分野の方とは近い問題意識を持っているなと感じていたので、全国からどんな人が集まるのだろうと楽しみにしていました
当日のスケジュールと様子
スケジュール
9:30 開場
10:00 開会式
10:10 口頭発表
13:20 ランチタイム
14:30 「ポスター&ミニ実演」「ワークショップ」
16:30 閉会式
17:00 懇親会
スケジュールはこんな感じで一日がかりでした。
自分、疲れか寝坊してしまい冒頭の発表を聞けてませんが…
当日の様子
基本的に科学者でありながら社会に向けて情報発信や啓発活動を行いながらコミュニケーションを図っていこうという人たちで、さらにその中でもわざわざ遠方からやってくる人が多く、社交的な人が多いなという印象でした。
サイエンスコミュニケーションをやる人の中でも、いろんな人がいますが共通して持っているなと思うのは外に対する意識です。
後で触れますが、そこにはちょっとした問題意識を抱える人もいるのですが…
口頭発表も一人10分という発表時間の中で小気味よく進み、「おぉ!こんな活動している人たちもいるんだ!」と心踊らされつつ、ランチタイムへ。
聞くところによると、例年に比べ学生からの発表も多く、発表者数も多かったそうです。少しずつ盛り上がっているのでしょう。
ランチタイムの後は、ポスター&ミニ実演会、ワークショップだったのですが、約2時間も広いスペースで自由に発表者と対話することができました。
交流する時間を長く取ってくれたおかげで、たくさんの方々と触れ合うことができました。やっぱり対話するには少し長めに時間を取っておくといいんですね…
終了後は懇親会へ!行くか迷いましたが結果は行って正解でした。
次に見聞きしてきた中で今日感じたことをまとめてみたいと思います。
参加した感想―科学の功罪とサイエンスコミュニケーション
サイエンスコミュニケーションと聞くと、子ども向けの実験教室や野外活動、または大人向けのサイエンスカフェが思い浮かぶ方も多いのではないかと思います。
実際、今回の年会における発表でも大部分はそうした発表に寄っていました。
こうした活動も科学を身近なものとして感じるために、重要な活動であることは言うまでもありません。なぜなら、科学と言ってもどうしても社会との関係を切り離して考えることはできないからです。例えば、食のあり方を教育的な活動を通じて行う食育やゲノム編集はどこまで可能なのかといった生命倫理的な問題など、科学を実社会に向けて開示していかないと、科学で解決を図れるようなアプローチに対する理解がなくなってしまうからです。
一部の人だけが分かっているからといって、必ずしも大丈夫だとはいえない側面が数多くあるのが「科学」の実態だともいえるのでしょう。高度経済成長の影にはさまざまな公害問題が生まれたり、プラズマイオンから水素水といった身近にある「科学的」とはなにかという問いに応えていくためにも、科学リテラシーということが叫ばれてもおかしくないことはよく分かります。
しかし、その一方で、だからといって科学を礼賛すればいいのかといえばそうではないのではないかという意見を拝聴しました。
今回の発表では、東日本大震災における大川小学校の被災にて、まさにその「科学コミュニケーション」が問われる事態が起き、最良とはいえない結果になってしまったことについての発表でした。
一重に「科学」といっても多面的であることは言うまでもありません。良いことばかりではなく、負の側面も同時に生み出してきたその反省も科学コミュニケーションとして開示していく必要性も叫ばれるのはよく理解できます。
啓発活動をするとなるとどうしても正の側面に焦点が当たりがちですが、実際のところ物事には必ずと言っていいほど裏表があります。裏表があるだけでなく、実はただ一つの「真理」なるものなんて暴き出せないということがそれこそ、科学というか学問の歴史の中で明らかになってきました。
例えば、ゲーデルの不完全性定理なんてその良い例なんじゃないかと勝手に思っています。
※ 統一的な「真理」は描けないという意味において。前提を定めることによって個々の「真実」は当然導き出せるので、相対主義を主張したいわけではありません。
記事の趣旨は問題ないが、ゲーデルの不完全性定理をこのように提示すると誤解を受けやすいとのご指摘を受けたので、中線を引いておきます。
ただ同時に大切だと思うことは、真理なるものがある意味で雲散霧消してしまったからといって「なんでもあり」というわけではないということです。
きちんと伝統的に積み重ねられてきた科学を学びつつも、また一方で自由な発想をすることができる余地を残すこと。その上で、批判的な討議を繰り返していくこと。それもまた、科学としてのあり方なのだと思います。
そうした科学のあり方を理解しつつも、また同時にそれによって生み出される功罪を認識することも、啓発活動と同様に重要なサイエンスコミュニケーションのあり方なのかもしれないと思いました。
最後に
こんな風に偉そうに語りながら自分はいわゆる科学とは程遠い分野を学んでいます。
ですが、思うに科学として一面的に捉えるのではなく「学問」として、もっと全体的に物事を捉える多角的な視点を持ちアプローチを図ること、そしてそのためにも、多様性を持ち得る環境が維持されることが多くの人々にとっても大切な「リテラシー」になるのではないかと個人的には考えています。
そのためにはやはり、そうしたことに触れる機会がもっとあってもいいのではないでしょうか?
僕の問題意識としては、そこに根があります。
僕にとって最初の出発点は哲学からでしたが、さまざまな人たちと接する中で科学の方々の中にも同様の問題意識を持っている人たちがいることがより見えてくるようになってきました。
そうした機会として学際交流の場を少しでも設けられたらと思い、今は『入門学術メディア Share Study』なるものを立ち上げ、その一環として『分野の垣根を越えた「人」の輪を広げるACADEMIC PARTY!』なるイベントを開催します。
まだまだ未熟者ではありますが、何かしらのきっかけ作りに貢献できたら幸いです。
では~