一年に一回、自分自身の哲学的思考として編み出された思想を更新したいと思って始めた「思想」シリーズです。

なぜ哲学ではなく、思想と表現するのか。
それは、哲学とはもっと原理的な体系に落とし込んだものにまでいった真理の追求を体現するものだと思っているからで、まだそれには到底達していないからなんです。
それでも、自分の頭にあるものを吐き出すことが半分この記事を書く目的、もう半分は自分が何を哲学・思想レベルで目指しているのかを外向けに発信することが目的です。
厳密に書き進めるのには年単位での時間と労力が必要だと思っています。
今回は教養概念の根底にあるものは何かという話から近現代社会の超越という展開の中にある問題意識について書く第一部となります!
教養とは何か?よく生きるとは何か?
まず、僕が根源的に問いたい問題意識が「よく生きるとは何か?どうより良く生きるのか?」ということなんです。
「生きること」に対する問いがまず僕には第一義にあり、その問いに対するヒントとなるキーワードが「教養」だと考えています。
ですが、哲学と同様に今や「教養」ということばもさまざまなイデオロギーという名の思想にまみれたことばでありますよね。
「教養としての◯◯」とかいう本がゴロゴロ出ています。
僕はかねてから真剣にこの「教養」という概念に向き合ってきたつもりなので、些か常套句のように使われる「教養」にはうんざりしています。
僕はこの教養という概念を再構築してみたいと考えているのですが、ちょっと長くなってしまうのでそれは第二部に書くとして、第一部ではそもそも教養とはどんな概念だったかについて語源を紐解きつつ整理してみました。
教養の歴史
一重に教養と言っても、その言葉の歴史を紐解いていくとさまざまな姿を見せてきます。
例えば、よく教養の語源として言われるのが自由七科の意味を持つ”Liberal Arts(リベラル・アーツ)”です。このリベラル・アーツは元はラテン語の”Artes Liberales(アルテス・リベラレス)”という言葉で、人間の精神や思想の学問を意味していました。ですが、そのアルテス・リベラネスのさらに元をたどればラテン語の”Ars(アルス)”という言葉で「技術・学術・芸術」を意味するものでした。
このアルスから派生して誕生したのが”Altes Liberanes”と”Altes Mechanics(アルテス・メカニケー)”で、後者の言葉はアルスの「技術」という意味合いから派生した自然を機械的に扱う学問のことを指します。
今で言えば、技術という言葉は単純な能力のように捉えられてしまうかと思いますが、その語源を辿っていくとギリシャ語”techne(テクネー)”であり、あくまでも原理を理解した上でモノを作るという意味合いが込められていました。
ちょっとややこしいと思うので整理してみると以下のようになります。
ここで右下の青枠の部分に注目してもらえたらと思います。
かつては自由七科の原点を説いたプラトンが、中世ヨーロッパ社会においては宗教的事情から端を発した教皇権力が、また現在の特に日本における大学理念にもつながる近代ドイツでは哲学者のフンボルトが、哲学を上位のものとして位置づけてきました。
ですが、今やコンピューターを始めとした「技術」、つまりアルテス・メカニケーがその立場を強めています。
こうした技術が発展していく背景には大きく現代経済の根幹にある、資本主義との関係を抜きには語れません。
分業化と大衆化が進んだ近代社会
自由経済の根本である競争原理のもとに、企業を法人と見立て富を得るために効率化や収益化を図ろうとするのが大きな流れとして根付いています。
そうした流れの根本となる契機だったのは、近代社会が作られた19世紀において展開された「産業革命」であり、言うなれば技術の発展により登場した工場の発明による分業化になります。
医療技術の発展と衛生環境の整備により人口が増加していく中で、徐々に形作られたのが分業化の体制であり、そして現在につながる大衆社会への道でした。
言うなれば、大量生産・大量消費の時代であり、インターネットが登場して以降のネットに対する一種の失望と、いわば「なんでもあり」のポスト・モダンや政治的に感情的なものが優先されるポスト・トゥルースといった言説の流行りと言えばいいのでしょうか。
とにもかくにも、今現在における問題提起として挙げられるものはそれぞれが連関しているものだと考えています。
近現代の超越と問題意識
近現代の超越と技術の発展
こうした問題におけるものとして、大きく挙げられるのがやはり近現代の超越をいかにするのかでしょう。
根本的なシステムとして形作られたものが技術の発展の中で乗り越えようとする気運があります。
実際、技術の進歩は凄まじいものです。今は2017年ですが、iPhoneが世に広く認知されるようになったのは2008年ごろからだったはず。まだ10年経っていません。そして、今現在、情報感度の高い人であればそうした技術がさらにこれから目覚ましい進歩を遂げていることは分かるはずです。
バーチャル・リアリティ、人工知能、バイオテクノロジーといった先端技術はもはやただの技術だけの問題ではなく、社会のあり方、人の生き方を問うものだと僕は思います。
昨今、「Alpha Go」といった人工知能が世間を賑わせていますが、人工知能の中でも特に注目したいのがAGI(汎用人口知能)です。今現在の人口知能は掃除をする、数値計算をするといった特化型としての発展は大いに遂げていますが、人のように学習を加速させ判断をそれぞれに下すことができる汎用型人口知能にはまだまだのようです。
先日、「AIandSOCIETY」という学術界やビジネス界の人々が集うシンポジウムでも、結局のところ、汎用型にはまだまだだという意見を耳にしました。しかし、こうした研究が学術、ビジネスからされていくことでより加速化していくことは目に見えていることのように思います。
資本主義と魔法の世紀
こうした流れはやはり技術を発展させるための資本主義の流れと強く結びついています。
言うなれば、資本家はその富を用いてより技術に投資しその利益を得ることができる構造になっています。ということは、資本のヒエラルキーとしてある格差と技術のヒエラルキーとして生まれてきた格差が必然的にリンクしてしまう。そして、これまで民主主義の名のもとに声を上げることを是とされてきたものが、そもそもその声を聞かずにより資本を蓄え、技術を用いてより脱人間化をしようという流れを加速させるというのが推測できます。
これは、現実と仮想の区別がつかない世界観である「デジタルネイチャー」、そして「魔法の世紀」を唱える落合陽一先生の考えです。
僕もおおよそそのような流れでいくことはある程度避けられないと思っています。なぜなら、人には理性だけでなく欲望があり、その欲望の根源にあるであろう自由の名のもとに、それを実現する力を持つ者が強力にその流れを推進しようとしているんですから。
別にそれが一概に悪いことだとも思いません。むしろ、僕はそうした流れにそこまで抵抗感はないですし、どんどん推進して人を楽にする方向に進んでほしいとすら思っています。
懸念とこれからの政治哲学
ですが、懸念もあるんです。
それは、結局のところ個々の声がより押しつぶされるようになってしまうという懸念です。
僕はメディアを4つも運営することや研究をすることなどやりたいことがありますし、モチベーションをかなり強く持っている人間です。
ですが、皆が皆そうではない。
そうした流れの中に取り込まれることに対し違和感を持つ者もいるし、言うなれば強烈に資本主義の構造をより強固にし、それこそ国を越えてそのシステムを押し付けようとするものでもあります。
それだから悪いというわけではありませんが、そうした統合化の流れは一種の発展を阻害する要因のようにも思えるんです。
魔法の世紀とは技術発展のポジティブな表現であって、ここまで書いてきたことは言うなればネガティブな表現である「奴隷の世紀」です。
これはもちろん、今すぐの話ではありませんが、資本主義と技術の発展に行き着くひとつの未来として大いにありえる話だと思っています。
だから、ここにはやはり思想が必要です。
これまでのただ人間観を中心としたようなものでもなく、ただ技術の促進を是とするのでもない、どちらをも調停するための思想となる哲学が必要なのではないかとも思うようになってきました。
少しずつですが、その思想を表現するための輪郭が僕の中で揃ってきました。
ちょっと長くなってしまったので、新しい教養概念の再構築や近現代を超越する流れにある中での哲学、とりわけ如何に規範を形づくるのかというそのプロセスに着目した政治哲学…といった暫定的な思想について次回の記事にしたいと思います。
