Part2では教養概念を啓蒙思想的な観点からすくい上げて暫定的に捉えている「公共圏と私生活圏を統合する生活の能力」、つまり「自分らしく生きる力」とした上で、そもそもの自分というものは他者なくしてありえないという他者論を展開してみました。

Part3では、哲学的な変遷の簡易的な歴史と現代哲学における3つの潮流、そしてこれも暫定的に捉えている生きることを考える上での倫理と原理的な規範である自由の相互承認についてまとめていきます。
哲学の変遷
まずそもそもここまで話してきた話題の中心である哲学とはそもそもなんなのかというと、それは言うなれば真理の追求を目指して編み出された普遍的原理を追い求めることだとも言えますし、もっとライトに言えば「自分のヴェールを脱ぎ去る」ための徹底的な思考的営みです。
ちょっと分かりにくいかもしれませんが、いわゆる精神史を学ぶ哲学学と自分の問題意識を出発点とした哲学は違うということを軽く押さえておいてもらえたらと思います。
さて、僕は哲学をしたいわけですが、だいたいのことは哲学学において追求されてしまっています。そんな中で現代というよりも、およそ70年代から90年代にかけて(捉える時期にもよりますが)流行った哲学的思想にポスト・モダンというものがあります。
このポスト・モダンはざっくり言うといわば「なんでもあり」の思想で、元をたどるとフランス哲学から派生して出てきたものなんです。
ですが、Part2でも書いたように僕はドイツ哲学の象徴とも言えるような啓蒙思想的な発想がまずありました。ドイツ哲学は人間中心に考える傾向があるとすれば、フランス哲学は脱人間的な傾向があると言えるでしょう。
ポスト・モダンとこれまでの哲学
そんなポスト・モダンが流行るまでに大まかには以下のような哲学的問いのポイントがありました。
- プラトン 「~とは何か」
- デカルト 「私とは何か」
- カント 「1と2の調停」
- ニーチェ 「そもそもなぜ問うのか」
その中でも特にニーチェの論考は先ほど言及したポスト・モダン思想と結びついています。
これまでのプラトンやデカルト、カントを起点にして展開されてきた哲学的思考から考えられてきた真・善・美を差異に還元してしまったからです。つまり、そうしたものは虚構にしかすぎないと言いのけてしまったわけです。
こうした観点から展開されていった哲学に分析哲学・現象学/実存哲学・構造主義/ポスト構造主義といったものにつながっていくというわけです。
そうした哲学的な展開はさらに認知科学的展開・メディオロジー的展開・実在論的展開と進んでいっています。
言語論的転回とメディオロジー的展開
さて、そのうちでも特に僕が考えたいと思っているのがメディオロジー的展開です。
このメディオロジー的展開をざっくり説明すると、コミュニケーションの土台となる媒介としてあるメディアや技術を哲学的対象として考えようというものなんです。
というのも、これまでの哲学は「認識の哲学」➡「言語の哲学」➡「メディアの哲学」と歩みを進めてきた側面があります。
デカルトが「私とは何か?」と問いたことから端を発した認識の哲学は、やがて「そもそも認識を成り立たせている言語とは何か?」という問いに展開していきましたが、やがてはさらに「いやいや、そもそも言語を介したコミュニケーションの土台となっているメディアとは何か?」と展開してきたわけです。
しかし、それはいいんですがやっぱりこのメディアを考える哲学はどこか人間を置き去りにする哲学を展開する傾向にあります。
「如何に生きるか?」ということを最大の問いとして持つ僕にとってはそれをただ単に受容する気にはなれない。
だけども、Part1で書いたようにやはり今は技術やメディアが大きく発展し、さらに資本主義とも結びついています。
これに対する明確な答えを僕自身が今すぐ出せるわけではありませんが、こうしたことを念頭に置きながら論考をまとめようとしています。
反倫理的倫理という根源的利己主義
さて、生きるということに対する問いを持つ僕にとって当然問題になってくるのは哲学的な倫理の問題です。
学校で習うような道徳でもありませんし、最初に言っておくとマイケル・サンデルが言うような極限的な倫理の問いではありません。
ここで問題としてあげたいのは「なぜ私は道徳的に良いことをしなくてはならないのだろうか?」という問なんです。
これに関してはかなり永井均先生の『倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦』の影響を受けています。
詳しい内容は割愛しますが、ざっくり言うと「私にとっての善いこと(直接的な善)ではなく、道徳的な善いこと(道徳的な善)をしなければならない理由や必然性はあるのか?」という問題提起が全体を通してなされていて、その上でこれまでの哲学者がこの「直接的な善から道徳的な善への飛躍がなされるのか?」という問いを華麗に避けてきており、結局のところ直接的な善から道徳的な善を導き出すことはできないという結論になります。
言うなればPart2で述べた他者論を考えたとしても、他者とは常に私の世界の中にしか存在し得ないということを意味しています。
つまり、原理的事実として人は利己主義者でしかありえなく、そこに短期・長期といった時間軸を入れたとしても「未来の自分」も「今の自分が想定している他人」でしかありえなく、根源的な利己主義とは利今主義でしかありえないということを述べていきます。
欲望の本質としての自由
ミクロな倫理からマクロな規範への考察の必要性
ここまで来ると、いよいよ「如何に生きるべきか?」という問いかけは混迷を極めているとも言えますし、逆にクリアに澄み渡っているとも言えます。
先ほどあげてきた利今主義的な倫理観は言うなれば「個人」における倫理としての限界に挑戦した論考だと言えるでしょう。
個人を出発点に生きる意味や倫理を考えると利今主義になる。でも、それは言うなれば言葉にならない領域として倫理というものが個人内の他者といった世界観からしか導くことしかできない。
いわゆる既存の倫理を考えるためには「愛」といった抽象的な捉えようもないものを引き合いに出さないといけないのですが、それを社会の規範として導出することにはやはり無理があります。
そこで、ミクロな個人の倫理を考えた時には他者や利今主義にならざるをえないが、では「社会思想として描くことのできる根本原理はどこにあるのだろうか?」という問いを考える必要性もあることになります。
そこで出て来る考え方が「自由の相互承認」というものです。
自由の相互承認
近代哲学を形づくった一人であるヘーゲルの哲学における相互承認を取り上げて、人間の欲望の本質としてある「自由に生きたい」という欲望をそれぞれが承認し合えるような形で社会思想を作り上げる、その根本的な原理のことを「自由の相互承認」と言います。
これまであげてきたポスト・モダンや他者の思想、そして現代の政治哲学が陥っているような思考実験にハマって価値の信念対立をただ繰り広げるだけではなく、実際に確認することができる根本的な原理として「自由の相互承認」を打ち立てることができると。
僕はまだまだ勉強も論考もしつくせていないという意味で暫定的にではありますが、この自由の相互承認こそが今ギリギリの限界で展開することのできる社会思想なのではないかと考えています。
自由であるためにもまずはこの自由の相互承認を根底とした考え方を展開していくのと同時に、「私は自由なんだ!」と感じ取ることができる実存的条件を整えていくことが必要になります。
どういうことかというと、いくら自由の相互承認が社会思想の根本原理としてあったとしても、当の本人が自由だと感じることができなければ意味を為しえません。
それに自由であるからこそ、どうしたらいいか分からないという人はたくさんいます。「さぁ、今から何をしてもいいんだよ。何をする?」と問われても困ってしまうわけです。
ルソーの『エミール』ではこのような一節があるそうです。
不幸あるいは不自由の本質は、欲望と能力のギャップにある。
であるならば、自由である実存的条件を考えると、「能力を上げる」「欲望を下げる」「欲望を変える」の3つが出て来るということになります。
僕は現代におけるさまざまな困難に立ち向かう上での非常に鋭い視点がこの自由の相互承認と自由の実存的条件にあるのではないかと思うんです。
ここまで哲学の大まかな変遷と現代的な問い、そしてミクロとマクロな視点から見た倫理と規範の原理についてサッと駆け抜けてまとめてきました。
そうした規範、これまでの人文学が敵視してきたグローバリズムの象徴でもあるような観光客の哲学に関してPart4ではまとめてみます。

- 思想γ2017―教養の再考から考える近現代の超越
- 思想γ2017―自分らしく生きる原理的考察と他者論
- 思想γ2017―生きる上での現代哲学的問題と原理的規範
- 思想γ2017―真面目で不真面目な観光客という他者の哲学
- 思想γ2017―コミュニケーションから見る教養と視養、そしてあそびの哲学へ