【Part4】思想γ2017―真面目で不真面目な観光客という他者の哲学

Part3では、これまでの哲学の大まかな思考図式の変遷と現代哲学の潮流についてまとめた上で、「如何に生きるか」という問いを持つ上では避けては通れないミクロな個人の倫理とマクロな社会の規範を原理的にどこまで描けるのかについて暫定的に学んできたこと・考えていることをまとめました。

【Part3】思想γ2017―生きる上での現代哲学的問題と原理的規範

Part4では、これまで人文学が批判してきたグローバリズムの象徴とも言える「観光客」という概念を切り口に新たな他者論を浮かび上がらせた哲学と、複雑極まりない現代社会におけるあり様をコミュニケーション論的観点から複雑系の科学の概念を適用して編まれた理論についてまとめます。

観光客の哲学から考える他者論と二層構造

観光客という概念

元は早稲田大学の教授であったにも関わらず、株式会社ゲンロンを立ち上げ批評家・哲学者として活躍されている東浩紀さんが2017年に出版された『ゲンロン0 観光客の哲学』というものがあります。

観光客と聞くと何を思い浮かべるでしょうか?この書籍で語られている観光客という概念(そう、概念なんです!)は、これまでのいわゆる人文学で批判的に語られてきたグローバリズムや資本主義の象徴とも言えるような存在です

Part1で語ってきたように、資本主義という今現在世界の根幹的なシステムを形作っているものであるわけですが、競争原理・国家・大衆というようなものを支える装置とも言えるような存在であり、さまざまな問題の争点として取り上げられてきました。そのため、ある種、大衆の象徴といえるような、つまり自らの欲望に赴くまま消費的に国境を越える観光客には論考の焦点には当たってきませんでした。

しかし、現在における人文学の敗退とも言えるような惨状に対して、手垢にまみれてしまった他者という概念としてではなく、新しい観光客という切り口から他者について考えようとする政治哲学の本なんです。

込み入った政治哲学的な議論がヴォルテール、カント、ヘーゲル、シュミットなどを取り上げつつなされていき、徐々に現在の人文思想が陥る反グローバリズム的なドツボを描き、「動物」と「消費」という理性にとっては不真面目な概念としてある観光客の概念を浮き彫りにしていきます。

動物的なもの、大衆消費的なものを批判しながら古き良き「人間」を求めてきたアーレントらを引き合いに出しつつ、現実社会における新しい政治哲学を描き出すために観光客の哲学が提案されます

ニ層構造

そんな動物的で大衆消費の象徴でもある観光客を考えることでなにが導き出せるのか?それは、オルタナティブな政治思想として、人が理性的な精神と欲望的な身体を持つように、国民国家も理性的な国家(政治・行政)と身体的な市民社会を持つという、二層構造によって成り立っているということです。

つまり、理性的である政治的な議論は国民国家単位で行われているが、市民の欲望は国境を越えてつながっているということを指し示しているということなんです。

そこから『帝国』を著したネグリとハートが提案した否定的な大衆の意味合いで使われているマルチチュードの概念を取り出し、一方で彼らの欠点的な一元論ではなく、二元論的なものとして捉え直すことが「郵便」、「誤配」の概念を用いて提案されます。

郵便的マルチチュードである観光客で意味する「郵便」とは、あるものがきちんと届けられるシステムではなく、むしろ誤配といった配達の失敗によって予期せぬコミュニケーションを生み出す可能性を含むものとして意味されています。

つまり、郵便的なものの概念には偶然性があるというわけです。僕らはまさにそんな偶然性によってさまざまな誤配を繰り返し生きているということを示しています

これはまさに不真面目な議論の展開だと言えるのでしょう。ですが、二層構造によって成り立つ現実社会のあり方を見つめた時、僕らは絶えず真面目と不真面目な領域な中で判断して生きざるを得ないとも言えるのかもしれません。

こうした誤配から生まれるとされる郵便的マルチチュードである観光客は、不真面目なルートをたどって、欲望の赴くままに観光し、また誤配によって緩やかな連帯を築いていくというわけです。

そして、そこに至ってはじめて、今までさまざまな議論をされてきた「他者」という存在が浮き彫りになるということでした。

ここからさらに理論的な土台がネットワーク理論を援用されながら、実は観光客が誤配的に人々のつながりを紡ぎ、新しい他者との出会いへと誘う原理だということを提示します。

最後にプラグマティストであるリチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』を引き合いに、その著作で打ち出された偶然性によって僕らは埋め込まれた存在として誕生しているからこそ、公的なものと私的なものの分裂という私的価値観の偶然性を受け入れるアイロニー(皮肉)と、そしてだからこそそんな偶然性とアイロニーによって他者への想像という共感が意義をなし、連帯と憐れみが紡がれることを描写しています。

ここで「観光客の哲学」はいったん閉じられるのですが、続く第二部では草稿として観光客が拠り所にして生きるであろう「家族の哲学」が展開されていくのです。

真面目で不真面目な哲学

さて、かなり駆け足で新しいオルタナティブな政治哲学として観光客の哲学を紹介しました。

ここでの議論はこれまでの「公共圏と私生活圏を統合する能力」という意味での教養の概念と連関し、そして同時に「如何に生きるか」という問いを前にした上で浮かび上がる倫理的な問いと社会規範としてのあり方にもつながってくるのではないかと僕は暫定的に捉えています。

もちろん、これらの議論を鵜呑みにするわけではありません。あくまで僕にとっての「生きる」ことに対する哲学においてさまざまな示唆をもたらしてくれるものとしてよくよく吟味したいと思っている論考なんです。

特に、東さんが強調する「真面目で不真面目な哲学」は、衰退する人文思想を根本的に編み直すひとつの契機として考えたい内容だと僕は思っています。

人も社会も一面的な理性や論理によって成り立っているわけではないのでしょう。それはこれまでのさまざまな哲学的論議の限界を知るにつれて痛感することなんです。であるからこそ、僕らは理性だけでなく、欲望をも織り込んだ哲学を今必要としているんじゃないか。

そう思うわけです。

実は僕もすでにそんな「真面目で不真面目な哲学」として考えたい概念として「あそびの哲学」を考えてみたいと思っています。

ここでいう「あそび」とはなんなのか?どうして僕はそこに着目したのか?

ここにきてやっと僕が今専門として学んでいる批判的談話研究と複雑系のコミュニケーション・モデルを取り上げることができます。

さて、ひとまず次回で最後の思想γ2017となります!

【Part5】思想γ2017―コミュニケーションから見る教養と視養、そしてあそびの哲学へ