【Part5】思想γ2017―コミュニケーションから見る教養と視養、そしてあそびの哲学へ

Part4では、『ゲンロン0 観光客の哲学』で示された新しいオルタナティブな政治思想として今後も参考していきたいと思っているものを紹介しました。

【Part4】思想γ2017―真面目で不真面目な観光客という他者の哲学

Part5では、僕が専門として学ぼうとしている批判的談話研究を紹介し、その分野を発展させる契機としてこれまでの思想2017があり、そして現在のグローバル化とデジタル化が進んだ今の新しい複雑系のコミュニケーションモデルを紹介し、その上でこれからの僕の思想をちょこっと紹介して終わりたいと思います。

批判的談話研究

CDSとは

批判的談話研究(Critical Discourse Studies:CDS)とは、哲学から始まり言語学・社会学を中心に心理学・歴史学などをも範囲に含むThe・学際研究の学問分野です。

何をするのかというと、抑圧をもたらすようなテクスト(書き言葉も話し言葉も)を批判的に分析して、抑圧からの解放を目指したり、複雑なコミュニケーションのやり取りを紐解くことで情報リテラシーの向上を目指したりしています。

批判的談話研究が持つ5つの基本的な考え方 │ Discourse Guides

ちょっとよく分からないかもしれませんが、要するにことばを中心に社会・文化をも分析する中で「良さ」を問い、より成長し、もっと生きやすい世の中を作っていきたいということを目指しています。

すごい良い感じに聞こえますよね。実際、これだけネット環境を始めとしたメディアが発達している中、その上で「タイトル詐欺」を始めとした?印象操作やコンテンツ内容の如何が問題視されている中でも重要な視点を持った研究だと思っています。

CDSの問題点

けど、個人的には三つ問題点を挙げたいんです。

第一に、テクストを批判的に読むだけじゃなくてそれを伝える必要があるわけですがその伝え方が上手くいっていないんじゃないかなという問題。これに関しては僕はShare StudyDiscourse Guidesを運営して自分なりに改善に向けた実践的活動をしている最中です。まだまだなんですけどね汗

第二に、批判的に分析する上での「批判」を行う上での正しさはどうやって担保しているんだ問題がCDSに対する批判として寄せられています。抑圧からの解放ということを掲げているのはいいものの、自らの主張を押し通すことにはきちんと研究しながら精査することも当然大事ですよね。結局のところ、批判をするということは「価値」を標榜するということです。それもコミュニケーションをする上での「価値」です。コミュニケーションをするというのは単純にことばのやり取りだけではなく、生きることそのものにかかっていることのはず。ということで、僕はミクロな個人の倫理やマクロな社会の規範、そして正しさに対する原理的な問いまでしっかり含めて研究の理論を構築する必要があるんじゃないかと考えています。そのため僕が有力だなーと考えている哲学を、Part1からPart4まで紹介してきました。

そして第三に、分析する対象が比較的目立つような政治家などにどうしても偏りがちなことです。日常的に誰それに敬語を使うだとか距離を置く、マナーといった慣習・規範を守ってコミュニケーションを行っているし、ビジネスを行う上で利害関係を調整したり自らをPRしたりしていますよね。それも広義の政治のはずですし、そうした日常にこそ「生きにくさ」を生み出すようなことばのやり取りがあるはずです。まっ、過度にそんな正しさを求めること自体も生きにくさに繋がると思っていますが、そこでやはり第二に挙げた「良さ」の視点が活きてくると考えています。

ミクロからマクロなダイナミズムを持ったコミュニケーションモデル

さて、そんなCDSの問題点があるわけですが、これまでさんざんと語ってきた哲学ともう一つ、理論的枠組みとなると思われるコミュニケーションモデルについても極簡単に紹介しておきましょう。

ミクロなコミュニケーションモデル:社会記号論

普段何気なく使っているのが「ことば」だと思いますが、「ことば」とはそもそもなんなのでしょうか?言語学的にはことばの基本は「音」から始まります。だって、書き言葉って後で生まれたものですもんね。ことばの意味というものは、音から始まり、語・文法へとつながり、さらにはもっと抽象的な概念をも表していきます。

下の図1)小山(2012)『コミュニケーション論のまなざし』にまとめられているが、より詳細な議論は小山(2008)『記号の系譜 社会記号論系言語人類学の射程』にて述べられているはそんなことを表しているのですが、実際、意味というものはこれに加えて社会的な文脈をも加わってきますよね。例えば、科学者の人が話す「水(H2O)」とそうじゃない人が話す「(飲み)水」といったように、実際のコミュニケーションのやり取りをよく見ないと「意味」は分からないというわけです。

文脈があるというのは先ほど挙げた「科学者」といったように主体がいるということで、そこにはさらに「時間」と「場」も関係して、文脈が成り立っているということになります。

間の論理はちょっと端折りますが、ミクロな言語の構造から始まりマクロなことばの意味というものは「主体・時間・場」という「視点」とともに連関しているんです。

ということはつまり、視点によって僕らのコミュニケーションというもの、言うなれば個人も社会も文化も作られているということを意味してくるんです

ちなみにこの視点のことを、「オリゴ」と言います。元は心理学の用語のようです。

マクロなコミュニケーションモデル:複雑系

以上のように、ミクロなコミュニケーションがマクロなコミュニケーションへとつながってくるわけですが、このマクロなコミュニケーションはさらに複雑系という科学的な概念を援用して展開することができるんです。それが『デジタルウィズダムの時代へ 若者とデジタルメディアのエンゲージメント』にて書かれている、以下の図で端的に表されています。

複雑系というのは、ざっくりいうと動的に関係性を持って成り立つ相互作用のシステムを指しています。これまで学問においては動的な複雑な関係性を持つものを対象にするというよりは、静的で限定されたものを捉えて理論を構築してきた側面がありました。ですが、科学の分野(特に生物学)で、どうやらひとつひとつを突き詰めて考えてもすべては分からないことが判明して、それよりもそれらの関係性といった全体のシステムを捉える必要性が主張されるようになったんです。

この複雑系のコミュニケーションモデルもその流れを受けて、グローバル時代・デジタル時代において「個人・社会集団・文化」がどのような動的なコミュニケーションが展開されているかを理論的なフレームワークに落とし込んで誕生したものです。

このモデルを援用することで、CDSの理論的枠組みを再構築して、誰に誰が何をどのようにコミュニケーションをするのか(分析においても伝えることにおいても)をより適切に示しうるんじゃないかと考えているんです。まっ、あくまで暫定的になんですけどね。

終わりに―教養と視養、そしてあそびの哲学へ

さて、ここでやっと僕がもっとも言いたいことの土台が足早にではありますが揃いました!笑

「教養」をテーマにここまで生きてきたわけですが、ここまで述べたようにただ単に知識でもなければ、芸に秀でることでもないと僕は考えています。

しかし、「ことば」とは先ほども言ったようにコミュニケーションのやり取りでその意味を変化させてしまいます。

では、どうしたら良いか?

その一つのアンサーが新しい概念を生み出すことではないかと考え、僕が編み出したのが「視養」という概念なんです!

教養と視養―「自分らしさ」と「良さ」

教養とは「私的領域と公的領域を統合する生活の能力」だと言いました。それはつまり、「自分らしく生きる力」とも言い換えられます。確かに、自分らしく生きることで「生への実感」を持ち、幸福を感じられやすい状態になれることと思いますし、それは素晴らしいことで目指すに値することだと思っています。だから、なんであろうと「自分らしく生きる力」、言うなれば生命力に長けた人はとても美しく僕の目には映るんです。

ですが、人というものは常に他者や環境といった外部との関係性、つまりコミュニケーションのやり取りによって、自らのアイデンティティを定めていますよね。逆に言えば、ずっと安定した「自分らしさ」というものはありえないのではないでしょうか?常に誰かや何かに影響を受けながら(当然、与えもしながら)僕らは「自分らしさ」を形作ろうともがいているはずです。

言うなれば、変化する「余地」「ゆらぎ」を僕らはうちに秘めながら生きているわけで、その変化に対応することを否が応でもなくさせられているわけです。そこに来てようやく、Part1からPart4にかけて述べてきた哲学的なまなざしが必要になってくることが分かってきます。

親は「偶然性」によってこの世に子を生み、子は半強制的な「必然性」によって生の歩みを進めます。そして、そんな歩みを進めること自体の背景には「自由でありたい!」という欲望を根本に秘めている。つまり、自分らしく生きる「教養」と、自ら(個人・社会集団・文化)を成り立たせるコミュニケーション、そしてそのコミュニケーションにはさまざまな政治的価値判断を伴った視点に基づいた「視養」があるのではないでしょうか?

「視養」とは、文字通り「視点を養う」という意味合いで、さまざまな多角的認識(知識、マナー、芸)やまなざしの深度(哲学的意義)をも含む概念として、既存の一般的に認識されているような「教養」の概念に置き換えることができるのではないかと考えているんです。

ここにきて、ようやく僕の問いである「如何に生きるか」に対するひとつの答えが指し示せるという仮説を打ち立てることができました!ここまで長かったー。

あそびの哲学

さて、ここまでの議論の展開は非常に「真面目で」「堅苦しい」もののように、考えている本人でさえ思ってしまっています

僕は考えることが好きですし、原理的にどこまでが正しいと言えるのかという真理への探究心も強く持っているからこそ、編み出た考え方ですし、生き方であるとも言えるはずなんですよね。

だから、もうこれはやっぱり僕にしかできない、僕だからこそ出てきた問いであり答えなんだと思います。

哲学というのは実際、そのような個人の精神的内面から生まれた「問い」そのものであって、厳密に突き詰め始め、外に出ようとした瞬間、途端に瓦解するようなものでもあるんです。

でも、やっぱり考えに考えたものだから世に問うてみたいなと思うんです。きっと、その過程を通じてまた新しい何かが生まれるはずですし。それは、僕の中にも外の誰かにも。

というわけで、もっと柔らかくポジティブな表現で僕の哲学を表現するとどうなるかと考え出てきたものに「あそびの哲学」という発想があります。

先ほども述べてきたように、基本的に生きるということは「偶然」に満ちた不確定なもので、言うなれば余白やゆらぎという意味での「あそび」があるのではないでしょうか?

そんな「あそび」があるからこそ、多様なあり方を肯定できるはずです。

そして、結局のところ僕らは何かしらの「規範」をコミュニケーションの中で作り上げていきます。そう、それはまさにルールを定める「遊び」のようです。

スポーツもそう、芸術もそう、学問も、生き方そのものの、そんな「あそび」の中で動的にゆらぎながら展開されていると考える事ができるのではないかと。

まだまだ本当に草稿にも満たないレベルの発想ではあります。それは今回の「思想γ2017」シリーズを通じて言えることです。

実はもっと科学哲学のこととかも言及しなきゃなとかも思うんですが、あんまりにも長くなってしまったのでここらへんにしておきましょう。

なんだか真面目に書き出せば新書くらいの本にまとめられそうな気がします(笑)

いつか本を出版してみたいです。

今回はひとまずこれにて。ではでは~

注釈   [ + ]

1. 小山(2012)『コミュニケーション論のまなざし』にまとめられているが、より詳細な議論は小山(2008)『記号の系譜 社会記号論系言語人類学の射程』にて述べられている