博士論文の審査を終えてから、もうすぐで一年が経つ。最近、少しずつ日常の落ち着きを取り戻し、読書に耽れたおかげで、ようやくちゃんと頭が回転するのを実感する今日この頃です。比較的快活、クレバーに哲学的な思考から日常生活の人間関係の機微についてまで、よく整理できてきています。
そこで最近考えるのが「中途半端さ」の問題。たとえばそれこそ博論がまさに「中途半端」だったと思うものでした。今日はその少し回顧をば。
自分が取り組んだ研究テーマは、日本の自己責任論をめぐるディスコース分析です(この記事を参照)。この研究では、専門の言語人類学の分野はもちろん、関連分野に向けても新規性を示し、事例研究としても新しい光を当てることができました。その達成感は、今でも確かなものとして胸にあります。
しかし、古典から現代思想まで関連する議論にあらためて触れる中で、研究内容の射程の限界や、ある種の「中途半端さ」も以前よりもハッキリとしてきました。それは間違いなく視野が広がった証拠だと思っています。そう、ここまでは、ある意味で冷静に、客観的に受け止められる部分なんです。
問題は、その先。
「中途半端さ」を認識することと、それを心の底から受け入れ、現実の自分──特に、研究者としての思考の追求と曖昧さの許容──と折り合いをつけ、現実に新たな自分として実践を展開することの間には、ものすごい深い溝があります(性格的・能力的な適正があるのかとか)。それを今、ぼくはひしひしと感じています。
ある意味、そのような理解だけなら頭で簡単にできます。どんな研究も完璧ではないし、限界があるのは当然です。自分の仕事もその例外ではありません。むしろ、その限界を自覚することから次が始まるのだ、とすら思います。
ですが、新たな文章の執筆に、実践に思うように手と頭がキッパリと動けている感じがしません。それは単なる怠惰や燃え尽きとはちょっと違う感じもするんです。
「不完全なもの」として世に出すことへのためらい。あるいは、限界を認めた上で、「よりよい方向」にどう舵を切ればいいのか、問題解決に向けたその具体的な道筋を描ききれないことへのぼんやりとした不安。
自分の能力の限界を認め、プライドを手放し、その上でなお、建設的に思考し、行動すること。これが存外に難しい。苦渋を血肉化し、次の行動へとつなげることはとても困難なことだと、今更ながら痛感しています。
この葛藤は、単に博士論文という特定の成果物に対するものだけではないのだと思います。学問を続けるということ、あるいは何かを深く追求し続けようとすることそのものに、本質的に伴うものなのかもしれない。
一年が経った今、ぼくはまだその「中途半端さ」の問題に、本腰を入れて切り込めずにいます。ただ、この難しさを受け止めるこの葛藤自体が、今のぼくの偽らざる現在地です。ここから目を逸らさずに、どう次の一歩を踏み出すか。その問いと格闘すること自体が、時間はかかるかもしれないが、次の段階への必要なプロセスなんでしょう。そんなことを、ふと考えてしまう今日この頃です。