博士論文「自己責任ディスコースの言語人類学的研究」が公開されました。

 どもー。こんにちは。青山俊之です。拙稿、博士論文「自己責任ディスコースの言語人類学的研究─中東地域日本人人質事件を題材に─」がネット上で公開されましたー!

 正式なものではないのですが、(比較的)しっかりまとめた博論の概要文がこちらです。

 本研究は、日本社会で繰り返し生起する自己責任論の生成・再生産メカニズムを解明することを目的とする。具体的には、2004年のイラク日本人人質事件と2015年のIS日本人人質事件という二つの中東地域日本人人質事件を主たる分析対象とし、これらの事例における自己責任をめぐる言語・コミュニケーション実践(自己責任ディスコース)を検証する。研究手法として、全国新聞五紙のデータベースを用いた通時的分析により、1980年代から現代に至る自己責任論の変遷を追跡する。さらに、言語人類学的アプローチから、中東地域日本人人質事件における自己責任論の諸相を分析する。

 本研究の分析により、自己責任論には日本特有の文化的規範―特に「迷惑をかけない」という社会関係的規範―が深く関与していることが明らかとなった。また、新自由主義的イデオロギーと日本的な自己観・責任観が複雑に交錯する様相も浮き彫りとなった。本研究の発見は、自己責任ディスコースの生成・再生産は日本の政治文化と深く結びついた現象であることを示している。本研究は、責任の所在を個人に帰する言説が逆説的に社会的な責任の所在を不明確にする点を指摘し、現代社会における新たな責任概念の構築に向けた理論的・実践的基盤を提供するものである。

叱咤激励?「審査の要旨」も公開されていました。

 審査の要旨も合わせて公開されていたのを発見しました。次のように評価いただいています。

本論文は、2000 年代に生じたふたつの中東地域日本人人質事件を中心的な事例に、なぜ日本社会において自己責任ということばが繰り返し使われてきたのかを言語人類学の視座から分析し、日本社会における自己観と責任観としての文化論理を明らかにした点において非常に新規性の高い研究である。またジャンル横断的に自己責任という用語の意味的な変容を、質的量的に捉えた本研究は、内外の言語人類学研究において初めての試みであり、当該分野や社会学の発展に大きく寄与するものである。

 課題も当然あるのですが、それは次のようにも指摘いただいていました。

こうした成果の一方で、本論文には以下の限界および課題が指摘される。まずデータ分析内容と議論内容との間に、些か内容の飛躍が指摘できる。データ分析から見出された自己と責任の意味体系に依拠した説明を 6 章で行うことで、文化理論の考察がより深まるであろう。また間ディスコース的に同じ型が繰り返し現れる文化理論の説明について、各章でより丁寧な説明を行うことで、さらに理論的貢献が顕在化したであろう。

「データ分析内容と議論の間に些か内容の飛躍」があったことが指摘されていました。単純に扱っている情報量が多く筋道が一本にはしにくいのと、たまに脇道に逸れて論じたいことを論じていたのもあって、このように指摘を受けたのだと思います。

 とはいえ、研究が持つ射程については下記のように高く評価いただきました。

上記の限界や課題はあるものの、こうした課題は今後の研究において発展的に解消されることが期待される。 むしろ、言語人類学の理論と具体的なディスコースデータをもって、日本社会の自己と責任の理論について読み直しをする本論文の成果は、言語人類学の分野的発展のみならず、社会学や政治学といった関連分野にも寄与する内容である。こうしたことから本論文の重要性とその功績は十分に認められるものである。

そうなんです。マルチジャンルなテーマであり、方法であり、研究的意義の射程があると思うので、もっとより発信力を高めながらよい議論をしていきたいのです(そうすべきテーマでしょう)。

 今回、講評を見て、あらためて「もっとわかりやすく論述しろ!」と叱咤激励をもらっているなと解釈しました(博論の審査中、ひたすらこればかり言われてきました。すみません)。

今も昔も変わらない「自己責任が問われている」感覚

 ちなみに、先ほど書いた自己と責任の関係がデータ分析に基づいて言語化されるとよい、という指摘に関しては、実は「いじり」の言語コミュニケーション分析や「犠牲儀礼」をキーワードに博士課程から分析・考察して取り組んできました。ただ、研究論文としてはまだ出版できていません。

 今回の博士論文の内容は、正直なところ、修士論文で書いた内容を博論のレベルに補足的にアップデートした内容で、博士課程から発展的に考えた点はあまり含まれていないのを個人的には残念に思っています。今後の学術活動の方針については、もう少しがんばって同テーマでやりたいと思いつつ、もっと大きい射程に踏み込んで論じたい気持ちもありつつで、いまは中途半端な状況です。

 年々、歳を重ねて時間がどんどこと加速し、「やりたいこと、やりきれる?」という疑問が最近よく頭をもたげます。自分としては、ディスコースを軸に、人類学と政治哲学の間をやっている感覚なんですが、どうにもこうにも研究ジャンル的にはニッチだし、そもそも生きていくのが大変でほんと嫌になることばっかりです。

 博論を執筆中、ずっと「自分自身の自己責任を問われている」という半ば強迫観念にまとわりつかれていました。ですが、むしろいまの方が観念ではなく、現実として(主に経済的な理由で)押し寄せており、悲しみはとどまるところを知りません。

 しかし! しかしです。春はいつか来るものです。粘り強さには自他共に定評ある自分をもう少し信じて、いい感じで生きていきたいと思います。


 ところで、博論の序章終章の全文を公開していましたが、PDFで全文読める状態なので閉じるかどうか悩ましいところです。ひとまず、公開されるまでは「こういう内容です」くらいのぼんやりした記事にしていたので、これからもう少し内容を噛み砕いて紹介する記事も増やそうとも思っています。

 なんと、そんなちょうどいいタイミングで初の名前入りの書籍が2025年2月末ごろに刊行される予定です。共著『ディスコース研究のはじめかた──問いの見つけ方から論文執筆まで』(井出里咲子・青山俊之・井濃内歩・狩野裕子・儲叶明、ひつじ書房)という書籍で、『言語人類学への招待──ディスコースから文化を読む』(2019年、ひつじ書房)の姉妹本であり、学部生向けの実践的なノウハウ本といった位置づけです。

 ぼくはあまり「褒めない」やつなのですが(自分に対しても)、これはわりといい本だと思いました!『言語人類学への招待』は初学者よりかはやや中級者向けなのですが、『ディスコース研究のはじめかた』はしっかり初級者向けになっています。

 余談でつい長く書いてしまいましたが、この書籍については別記事で紹介いたしましょう。そうそう、悪いことばかりではありません。なんだかんだいろいろやっています。今後はエンタメ性も、メタメッセージ性も、ストーリー性もある文章を書きたいなと思っているんです。いかんせん、言語人類学と言説分析の技法で身につけた「記述的」な書き方をしてしまうのですが。こういう、いいことばかりではない、デメリットについても真摯に語りたいところです。

 さすがにそろそろこの辺で。ではでは!