科博のクラファン騒動について──交換と贈与、贈与と交換

 国立科学博物館(以下、科博)のクラウドファンディング(以下、クラファン)「地球の宝を守れ|国立科学博物館500万点のコレクションを次世代へ」が話題を集めている。このプロジェクトは、コロナ禍、光熱費、原材料費の高騰が重なり、科博の目的である「標本・資料の収集・保管」が資金的に難しくなった状況に対し、クラファンで1億円もの支援金を集めるというものだ。この雑記を書いている8月10日4時現在、支援者は3万2千人以上、支援金はすでに5億円を超えている。クラファンは、支援金集めもさることながら、そのプロジェクトを広く認知してもらうことも大きな目標として位置づけられる。その意味で、このプロジェクトは成功以上の成功を収めているといっても過言ではない。

科博クラファン騒動の論点

 一方、応援だけではなく、懸念の声も大きい。国立科学博物館なるものが、運営資金を国からではなく民間から収集すること、それ自体が国の衰退を表しているのではないか。あるいは、クラファンが成功したといっても、この成功が逆に行政から一機関へと資金繰りの自己負担を正当化する根拠となるのではという声もあがっている。

 科博は「国立」という名はつくが、独立行政法人であって国の直接的な管轄ではない。この運営形態も国立大学の実情と近しい。研究者など、大学改革や研究・雇用・運用資金の減少を認知する人々が科博の実情を他人事に思えないのもよくわかる。

 私見だが、このクラファンそれ自体を単純には否定できない。確かに、科博の基幹を支える「標本・資料の収集・保管」に対し一時的な資金調達手段であるクラファンを用いることにぼくも違和感は持つ。だが、クラファンは資金調達だけではなく、話題づくりにも使われる。ぼく自身もこの性質を利用し、全国47都道府県を旅して「これからの大学を考える」というプロジェクトをクラファンを通して訴えたことがある。これも資金集めというよりも、活動の趣旨を発信することに目的があった。科博のクラファンも科博を応援してくれる「仲間を増やす」ことが目的だという。クラファンでも規模は相当大きいもので、広報を含めたさまざまな目的を鑑みて実施したことは間違いない。その点を鑑みると、一概に否定できない。

 ただ、重要だと思うのは、このプロジェクトの性質上、一時的な寄付に終わらない施策につなげることだと思う。この点がどうなるかは現時点ではわからない。

交換と贈与を逆転させるクラファン

 この騒動を傍目にしながら、クラファンとはどのような営みなのかを考えた。おそらく、クラファンは通常の交換と贈与の関係を逆転させていることに特徴がある。普通は、物やサービスをお金で買う。これは形式的には交換の原理だ。ただ、交換を通して「相手を応援する」といった贈与も発生する。この点は、サービス産業が発達する現代に生きるほとんどみながわかっている。一方、クラファンにおいては交換は二次的なもので、先にあるのはプロジェクトを応援するという贈与関係である。現代社会における一般的な交換は贈与は二次的だが、クラファンはむしろそれを逆転させ、お祭りに仕立て上げることで集団的で一時的な贈与とコミュニティをつくる。

 このクラファンの贈与-交換のメカニズムによって、人間と社会の関係性から資金を調達し、交換する物やサービスが二の次になってしまう。とはいえ、あくまで交換によってその贈与が促進される。この二重的な性質が未来図に対する余剰的な資金を生み出す。そのため、交換が交換として閉じにくい。クラファンはあくまで形式であった贈与をむしろ前面にし、それを増殖させることによって資金を生み出す。

 このメカニズムこそがクラファンのある種の歯止めの効かなさ、言い換えれば生じてしまった関係性の重みを事後的に生み出す。これがクラファンを持続的な生業にはしにくいとぼくに思わせるものだった。クラファンは続けるには辛いものがある。交換には交換の断続的なゆるいつながりがある。その断続性の価値がわかるようになったのは、自分のクラファン経験などからその難しさを痛感したことにあった。科博とは関係ないが、ぼくは自分のプロジェクトで生んだ贈与的ななにかとその負担をずっと負っている。だからこそ、今回、その重みの成り立ちを言語化しようと考えた。

 個々のプロジェクトには個々の物語がある。個々の人生には、個々の時間的な積み重ねがある。この積み重ねたものの重みは、それを知らぬ者には捉え難い。最近ふと考えるのだが、この積み重ねたなかでの失敗や余剰こそが、次なる者が継承する価値あるものだと思う。だからこそ、今回のクラファン騒動でも行政なり関係者なりが考えるべきは、これまでの失敗からなにを学べるかではないだろうか。

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