ども。青山俊之です。この記事では、学術雑誌『社会言語科学』2021年3月号に掲載された拙稿「自己責任ディスコースの詩的連鎖―ISIS日本人人質事件におけるブログ記事に着目して―」を紹介します。
ぼくにとって正式に掲載された初の学術論文であり、実は旧版として2015年の学部3年生のときにはじめて「論文」なる形式で書き上げたものとほぼ同じ内容です。思い入れも人一倍あり、なによりその後の研究の出発点となるものだったので、ぜひ一度紹介したかった。ただ、ボリューミーな内容なので、ここではかなりざっくりと要点を紹介します。
※ 2024年5月現在、インターネット上で論文は無料で読めます。
論文の概略
論文の発見と結論
この論文で発見したのは、人質事件における自己責任論の理由づけには社会関係的立場・役割(親・職業・国家)といった他者の視点を組み込まれていたことだ。それを象徴するのが「迷惑をかけない」という文化的な規範であった。
一見すると、自由で自律的な個人を意味するのが「自己責任」とも解釈できる。いわゆる主体性というやつだ。だが、ぼくの論文では人質事件では他者が自律「させる」ものとして自己責任論が論じられたことを発見した。そこには日本の文化規範が関係している。これが論文の結論だ。
論文で扱うデータ
論文では、2015年1月から2月はじめにかけて起きたIS日本人人質事件の自己責任論のなかでもとりわけ際立ったデヴィ夫人のブログ記事「大それたことをした 湯川さんと 後藤記者」(2015年1月29日公開、以下「ブログ記事」)を主な事例とした。
まず、IS日本人人質事件とは、シリアに渡航した民間人の湯川陽菜さんとフリージャーナリストの後藤健二さんがISにより人質となり、日本政府に身代金を要求した事件であった。人質をとらえた映像はインターネット上で公開され、世界的な注目を集めた。事件は人質二名の死亡という結果に終わる。
事件は途中、湯川さんの殺害が公開され、残る後藤さんの安否と政府などの対応に注目が集まっていた。その中、公開されたのがデヴィ夫人による「ブログ記事」であった。デヴィ夫人は後藤さんに対し、 「いっそ自決してほしい」と述べ、この人質事件をどのように考えるか、と読者に問いかけた。
これ に対して寄せられたコメント(以下、「コメント」)で は「ブログ記事」の賛同や人質に対する「自己責任論」をはじめとした批判が数多く寄せられた。「ブログ記事」は Facebook上で2万件以上拡散され、その内容はBBC で報じられるなど、国内外でも広く拡散された。
事例の意義と分析の着眼点
この分析事例を分析する意義のひとつに、自己責任論の具体的な内容や特徴がデータとして寄せ集められている点にある。一般的に「自己責任」と関連した現象は数多くあるし、またこの概念に対する解釈も幅広い。
そこで、この論文の大きな目標は自己責任論の新たな解釈を提示するのではなく、人々が自己責任をどのように語っているのかを読み解くことにある。つまり、まず議論の実態を知ることが重要だという考えのもとに以降の議論を進めていく。
論文の分析概念
論文では、言語人類学を中心に分析概念をまとめている。その中で特に重要なのが、詩的機能と文化モデルである。ただ、説明し出すと長くなるので、ここでは説明を割愛する。詳細を知りたい方は下記記事を参照してほしい。
詩的機能──定義とその人類学的意味論文の分析
分析では、「ブログ記事」のテキストからデヴィ夫人の語り口や論点を読み解き、さらに「コメント」で人質が批判される理由づけに着目した。たとえば、人質らが渡航制限を無視した個人行動に責任を問う声もあれば、逆に個人の対処範囲を逸脱しているという批判もある。
まとめると、「コメント」で論じられる「迷惑をかけない」の数多くは、「家族、国家、社会」といった社会関係の観点から理由づけが施されていた。
論文の考察
自己責任論の理由づけに用いられる「迷惑をかけない」は、他者の目線を介して発せられいた。ここから二つの考察を導き出した。
ひとつは、自己責任論は現代における儀礼の一環として理解できる点。この事例では確かに責任が問題になっているが、自己責任論で起こっていたのは責任を決めるための行為ではなかった。そうではなく、乱された集団的な秩序を元に戻すために「スケープゴート」として誰かが裁かれる。それが今回は人質であった。
もうひとつは、公共の場における日本の文化規範が自己責任論にはよく現れている点。どんなに個人の自由な意思で行動したとしても、いわゆる世間のまなざしに晒されればその文化圏における適切な振る舞いから逸脱すると否定的に評価されてしまう。
おわりに
自己責任論の難しさは、個人の意思と世間の目のどちらの解釈も混ざって議論が展開される点にあります。個人で主体的に行動したとしても、それが結果的に世間の反感を買えば「迷惑だ」と批判されてしまう。
したがって、日本で「自己責任」が論じられる実態に迫るには、社会背景に加えて、なにがどう語られているのかを注意深く観察しなければならない。これが論文の主要メッセージです。