学問の自由は保身のための道具なのか

 先日、東京都・新宿に立地する学問バーにお邪魔してきた。その日は、DE-SILOという人文社会科学研究者を支援する一般社団法人がイベントを取り持っていた。イベントの趣旨は研究者のキャリアを考えることであり、そのために研究を取り巻く状況や環境が話のネタに挙げられた。

 その話題のひとつ、というよりも参加者のぼんやりとした共通見解としてあったのが「学問の自由」である。いわく、憲法で学問の自由は保障されている、したがってその自由を脅かすことは許されない、少なくとも自由に研究をする権利がある、しかしながら現実はそうではない、この状況に対しどうするか。これが議論の暗黙理の骨子だったように思う。

 だが、ぼくはいくつかの点でこの認識に対し疑問がある。第一に、学問の自由が憲法で保障されていようと、大学人が社会で信頼を得ているようには思えない。第二に、大学人や研究者というグループでまとまれるほどの積み重ねはできてこなかったし、できるようにも思えない。第三に、SNSをはじめとした情報社会に対する認識が乏しい。

 現政権をはじめ多くの人々に大学や学問に対する支持も信頼も得られていないことは単に権利やリテラシーの問題にも還元できない。誰かの権利は誰かの権利をおびやかす。税金の浪費を理由にした大学への批判はこれに該当する。リテラシーは信頼には結びつかない。むしろ、リテラシーは信頼を壊す批判をも促す。自由・人格・権利を重視した近代社会秩序の原理、あるいは個人化を進めた情報社会は自らの責任を引き受けるのではなく、むしろ他者の責任を問い続ける人々をも生み出した。こうした状況認識なく信頼を回復し、研究者の権利や自由を得るための知恵は引き出せないのではないか。

 なによりも、運動が起こってもその活動は萎み、また忘れたころに新しい人が権利と承認を求めて集う。こうした光景は幾度も繰り返されてきた。2015年の文系学部廃止論争からこの話題を追い、小さな運動を起こしつつもその実態を観察してきた自分にはそう見える。

 もちろん、ひとつひとつの活動に、あるいはそれに関わる人々にはそれぞれの人生がある。立場がある。主張がある。信念がある。だから、ぼくが語ったことも「ぼくはこう考えた」としか言えない。けど、逆に言えば「ぼくはこう考えた」ことを示し、暗黙理に「あなたはどう考えるか」と問いかけることはできる。そうした積み重ねによって「こう仕事を紡いだ」と結果を問いかけ続けていくことはできるかもしれない。ぼくとしてはそれがぼくなりの自己責任の取り方だ。大手を振って言うことでもないけど、少なくともいまはそう思う(つづく)。

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