検証と解釈の開かれと閉じられについて

 最近、社会科学を含めた広義の経験的研究と人文学の違いを意識することが多い。経験的研究は理論と方法論で構成されてるけど、人文学は理論と技法で構成されてると考えると少しすっきりする。

 経験的研究は検証可能性を大事にする。現実の現象を検証するために、学者同士で方法論を共有する。だが、人文学では、究極、すべては解釈のぶつけ合いというある種の闘技精神が暗黙理にあるように見える。解釈の最もらしさを主張するためにも、もちろん、現実の調査はする。それは文献調査だったり、社会調査データを用いることもある。だけど、最終的に問題提起するのは解釈であるのが人文学の肝だ。だからこそ、その解釈をする固有性と、ある種のはったりをする部分が技法だと理解できる。

 あまり意識されていない気がするけど、おそらく検証のほうが学者共同体に閉じられていて、解釈のほうが公共に開かれている。でもって、SNS社会のいまだろうと、あるいはプレモダンでも人間が行い続けているのは解釈のほうであって、起源としても古い。ぼくはどっちにも片足を突っ込んでいる状況で、正直、どっちもどっちだと思うこともじつは多い。だが、どちらにつくかといえばぼくは解釈のほう、つまり人間につくだろうとはっきりと考えるようになった。

 だが、困ったことにぼくが大学院生活で培ってきたのは経験的研究のほうだった。長年、理論・方法論と事例・調査者のイデオロジカルな関係について考えてきた。この点は、人文学にも適用できる。ただ、人文学は解釈の積み重ねから「物語」をつくれる。この点は、経験的研究をしている人にはあまり伝わっていないように思えてならない。ぼくは、経験的研究だろうと「人間」を基盤にする限りは、この解釈と物語を抜きにはできないと思うのだが。

 検証と解釈。この切り替えに四苦八苦しているが、この間にいる状況は大学とか教養とか考えるのに後で役立つ気だけはしている。

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