REN訪問──植物、インターフェース、老い

 先日、植物の下取り、再生、販売を行う「REN」に行ってきた。RENのオーナーはボタニカルディレクター/デザイナーの肩書きを持つ川原伸晃さんである。川原さんはぼくが務めるゲンロンにもイベントに登壇するほど、植物を中心に自身の思想と実践を熱く語ってくれる稀有な方だ。今回、ゲンロンのイベント担当スタッフをぼくが前任から引き継ぐことになり、ごあいさつにRENを訪問した。

 川原さんが手がける植物には独特の「美」が宿っている。ただ、きれいな花を咲かせるから店で飾るのではない。むしろ、枯れ果ててしまうような植物さえも独自の技術を用いてその生命力を再活性させ、その植物にしか表現できない美的な魅力を引き出す。そのため、店内に置かれる植物は「希少な種類」だからではなく、その植物独自の「かけがえのない希少さ」で希少性をランクづけしている。

 たとえば、下記の写真はガジュマルという植物で、その根の中心は空洞になっているものの、しっかりと根を生やし、表皮の艶からも生命力を感じさせる。ある種、ゾンビ化したガジュマルという風貌で大変魅力的な植物にぼくの目には映った。真っ白な店内には、こうした独特な形をした植物が散りばめられている。

ゾンビ化したガジュマル

 川原さんがこうした植物ショップ(プランツケアと呼ばれる)を経営するにあたってのストーリーや、背後にある思想も、お店で垣間見える植物を再生・ケアする実践も大変興味深く伺った。個人的に、とあるタイプの「自然」や「環境」を重視して語る議論には距離をとって観察していたのだが、川原さんの思想はむしろ植物を中心にしつつも人間の在り方を考えるものでその点もとても共感した。

 そのほかにもたくさん話をしたのだが、ぼくが「自己責任」を研究しているという点で「厳しい人なのかなぁ」といった印象を抱かないわけではなかったという。正直、そういったことはあまり言われたことがなかったので戸惑ったが、確かに「自己責任を研究しています!」と堂々と語る人に対してはむしろ一般的な反応なのかもしれないと思った。

 一言でいうと、少なくとも現段階でぼくが自己責任を通して中心的に研究しているのは「日本人」と「日本社会」についてである。「自己責任」を主張したいのではまったくない。むしろ、あくまで「自己責任」という記号はぼくにとっては議論の入り口にしかすぎない。言うなれば、あくまでなにかとなにかが交叉する「インターフェース」として「自己責任」を捉えているのだ。

 そうした話をしたところ、川原さんも「植物」をいわばインターフェースにして思想や実践について考えているとのことだった。これまであまり自然や植物について積極的に学ぶ機会がなかったのだが、RENの実践やその植物の美しさ、また川原さんの誠実さに触れ、読書欲が湧いてきた。ぼくはかつて、大学受験で地理と地学を選択していたこともあり、自然や環境はいつかはなにかしら扱いたいトピックでもあったのだ。

 出版や研究の仕事をしていると、つい目移りばかりしてしまう。ただ、30歳になったばかりのまだ若いうちと思って、貪欲に知見を蓄えていきたいと思う。ただ、川原さんが話の途中にもかかわらず、枯葉をサクッと切り落とす姿を目にしたことをふと思い出した。たくましい幹にするには、いつか知見も見栄も切り落とす必要があるのかもしれない。

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