研究者向けWebサイト制作、メディア運営の事業母体『Share Culture』開設

安易に「意味がない」ということは言わない方が良い

僕は基本的に何かについて「意味がない」と言えるほど「何が意味があるのか」について判断できないと思っている。何についてどういう観点から「意味がある」とか「意味がない」とかについては言及できるが、その言及をすることそのものにはなにかしらの判断が伴っていることに対してとても自覚的でありたいからだ。

「役に立たない」も「(私にとっては)役に立たない」といったように、ことばを発した人がそう思っているのであって、その役に立たないとされるものを別の意味で「役に立つ」と思って過ごしている人はいる。そういう前提は、「意味のあるなし」や「役に立つ立たない」という議論がある際にもう少し強調されて良いと思う。

例えば、プラモデルに夢中になる夫に対して妻とケンカかなにかがあった際に「妻がプラモデルを捨てた」という事例が考えられる。夫にとっては重要な趣味として自分の生活を成り立たせる一部としてプラモデルとの関係を作っているとすると、その関係をあえて「意味のないもの」「役に立たないもの」とするのはとても暴力的だと言える。

もちろん、プラモデルに限らずさまざまなものが「代数X」として挿入できる。そして同時にこれは状況を限定化して想定したものであって、実際に起きたもっと具体的な状況をさまざまな観点から見ていくと、必ずしも「夫が被害者」で「妻が加害者」という二項対立的な図式は成り立たないことも容易に想像できるだろう。

「意味のある/なし」「役に立つ/立たない」という議論が飛び交うときに気になるのは、表層的に見えていることからの判断ですれ違ったままのコミュニケーションに陥り、価値観をはじめとした前提や具体的な状況を踏まえた上での交渉的なやり取りが捨象されたり、なにかしら起きた出来事の分析可能性(例えば、歴史社会文化的な位置づけ)が背景化されたりしてしまうことだ。

つまり、掘り下げていけばそれなりに出来事の妥当性や論理的な連続性は見て取れるわけで、安易に「意味がない」としてそれらを置き去りにしてしまうのは、知的にはもったいない行為だと思うというわけだ。

一方で、上記で言うような知的な態度をいつでも誰でもとれるわけではないし、取るべきだと主張すること自体が、似た道を進んでしまうことに僕は注意しなきゃいけない。「それができれば苦労しない」という、単純な話で、いつでも誰でも理知的に振る舞えるなんてのは基本的にありえない。

最近は、人間の感性的・情動的な側面とどう向き合っていくかについて真剣に考えている。まだまだモヤっとしてうまく言語化しきれていないので、あまり積極的に書く気になれないでいた。悩んでいることも含めてダラッとここではもう少し、書いてみたいと思う。またこのへんについては触れていくつもり。