考えることへの呼びかけ

最近、自分ができる仕事は何かということだけでなく、未来へと残せることは何かということについて真剣に考え始めている。というのも、ネットはあまりにも消費的で情動的でどこか「考える」ということには程遠く、少し落ち着いてふるまって「良いもの」を作ってという人も過去を忘却するようなふるまいへと容易に転嫁していく姿を見てきたからだ。これでは何も残らない。そして、何も変わらない。

個人が人生で培ったことを「経験」を介して発揮していくこと、それ自体は悪いことではない。だけども、個々人は別々でも「みな」が似たようなふるまいや言動をしてしまうことがある。まさにそこに、「社会」だとか「文化」への問いがあるのだ。忘れたころに亡霊は呼び覚まされる。言い換えれば、呪いとして無自覚性を伴いながら三度現れる。

だから、「時に」そうしたことへ振り返るまなざしは重要だ。しかし、問題なのはそれが「いつ」「どのように」現れ、「どのように」対処することができるのか、あるいは「どこまでができないのか」だ。それが非常に難しい。ひとつのアンサーとしては、自分が普段しているものとは異なるしさまざまな視点を学び取り、上述したような問題意識をアンテナとして貼ることだと思う。

こうした考えを大なり小なりめぐらすことが、もう少し深い意味としての「思考する」ということだ。

「Share Studyを読んでいるとどことなく考えさせられる」ということばを最近もらった。素直に嬉しかったが、そこで得た気付きが自分は「考えさせるように呼びかける」ように声かけすることが多いのかもしれない。

別に自分が優れた思考、能力を持っているわけではない(上には上がいることを認識している)からあまり「教師」っぽいふるまいをしたくないのだが、振り返ってみると「先生みたいですね」的に言われたり、扱われたりすることがある。個人的には、ただ自分が考えてきたことと考えていることを相手に応じて発しているだけだったりするので違和感があった。この文章もまったくもって「わかりやすい」文章ではないし、わかっているのかわかってないのかと言われれば「わかっていない」ことの方が多い。

が、説明がめんどくさくてお茶を濁すように書いている側面もある。今日は疲れたので、適当に書くとして、これから『TIRU LABO』『Discourse Guides』『Share Study』の三位一体でより「ユーザーエクスペリエンス」を高めたことばを放って、思考を誘発していきたい。それを残していくことが僕の仕事だ。