ツイートをためらったことと逆説的に縛られていることからの脱却としての雑記

最近、Twitterを見てても「顔」を見ててイラつくことが減った。デジタルデトックス的に、下手に考えを誘発する余計なものを見過ぎないようにしてきたここ2, 3ヶ月の努力が功を奏してきたのだろう。何気ない達成感の積み重ねはなんだかんだ重要である。

しかし、つい今し方、僕はとあることをツイートするのをためらった。それは教育に関するとある記事を読んで覚えた違和感についてだ。個人的にはハッキリと違和感を持つ「教育観」に出会したので批判的なツイートをしようとしたのだ。だが、どうにも手が止まった。なぜなら、「教育」に関して努力している友人・知人がおり、僕のする予定だった抽象的なツイートはやや「教育」という営みに関わる人に攻撃的な内容だったからである。

僕には特定の「意固地」なタイプの人を怒らせることをよくやってしまう経験があり、できることならめんどくさいことにはあまり関わりたくないなと思う自分は、余計なツイートをして何か余計な対処をせざるを得ない可能性を考えてしまった。そして、

「あー、これは逆説的に他者に縛られているなー。」

と感じてしまった。自主的にツイートを控えたのに、Twitterという環境の増殖性とツイートの多義的解釈可能性から「短文」で抽象的なことを書くのを拒んだ。でも、物足りないのでどこかで書かないと気持ち悪い。そこでこの「つれちる雑記」の出番である。

これだけ前置きして思考の揺れ動きを描いたが、ツイートではこうした紆余曲折がほぼ分からない。対人で目の前にいるときにも、似たような出来事に遭遇したときになんらかのサイン(例:ためらいとしての間、声のトーン、視線)が出る。が、ネットで表出されたものは「表出されたものからしか」手がかりを得られない。

逆に言えば、そうした「手がかり」を与えないデジタルコミュニケーションに僕は違和感を持つような規範性をある種、獲得してしまった。「いや、お前、その短文だけじゃわかんねぇよ、もうちょい説明しろや」と思ってしまうことがままある。

今回の件でいろいろ思考を巡らしたが、大なり小なり、何かコミュニケーションをするときにたぶん僕はこれくらいいろいろ思考をめぐらしてしまっている。この文もかなり脳内垂れ流し状態で全然まとまっていないので、「いや、もうちょいまとめろや」と自分で突っ込みたくなる文章だ。だが、そんなことも長々と書けるのが雑記の強みである。「あーブログやってて良かった」と久々に思った。

せっかくだから、ブログにはもう少し毎日気づいた「コミュニケーション」についてのあれこれを書いてみたいなと思うのだけど、まぁ今回みたいに適当に筆が走りそうなときに書けばいいかなとも思う。

最後に、ツイートしようとした内容がこちら。

自分が「なぜ」と疑問に思うことに対して抽象の階段を登らないまま詩的に綴られる教育談を見るともうなんか気持ち悪くなっちゃうことが多いんだよな。仮説を持って実践する姿勢を持つのはわかるけど、メタ認知・メタ批判ないまま、特有の世界観を作っていくそのイデオロギーなんやねん。

いや、「これくらい普通にツイートしてもいいのでは…」とも思うんだけどね…ブログに対する変な熱が社会的になくなったので淡々とこういうことを書きやすくなったのはありがたい。