論文投稿と学振申請書の提出完了で高まる安堵感

 いやー終わった! 学振申請書の提出が。一週間前の5月7日にだけど。とにかく、この2年間、その瞬間を目掛けてひたすら準備してきたので、安堵感はこれまでに高まっている。晴れた元旦に新品のパンツを履くくらいにはスッキリしている。

 この一週間は、それでも緩やかにやることはやりつつ、休むことを意識した。同じタイミングで、やや日本におけるコロナの感染者数も確かに減ってきているようだ。もちろん、ワクチンが開発されないことにはどうにもならんだろうと思われるが。何にしても、追い込みの時期にコロナにかかってしまってはどうしようもないという気持ちと、なんかやれることはやりたいなという気持ちが鬩ぎ合ったが、「今はそんなこと言ってられんだろう(大したこともできるわけではない)」と心を落ち着かせながら、淡々と研究に取り組むようにしていた。

 前回、はじめたといった年表も4月には少し手が止まったが、一昨日くらいに再開した。3月20日に、「100日後に死ぬワニ最終回後、怒涛のPRラッシュ」に関する騒動が起きたらしい。もう遠い昔のようだ。最近、つくづく思うのは、フローすぎるデジタルメディア環境への違和感だ。あまりに、何かが次々と流れてしまう。人間の生活には適さないレベルじゃないかと思う。これに慣れてしまった方は、ちょっとハイになっていると思った方が良いと思うくらいだ。そんなにいつも、ハイテンションでいられないでしょうにと。

 一言で言えば、「歴史」がない。ここ最近の問題意識を煎じ詰めればこの一言に尽きる。Twitterなど、SNSが登場したことでこれまで以上に開かれた言論空間が生まれたことは間違いないし、悪いことではない。間違いを含んでしまおうと、それなりに考え、他者の意見に耳をすまし、知識や事実を確認して、時に反省する心があればどんどんと言葉にし、吸収して行けばいいと思う。しかし、それが「できる」条件はあまりに整っていないように感じる。一方で、ただ、誰かのハイになった情報は流されていく。

 これでは、議論の参照軸やつながりは希薄化したまま、そこに参与する「よくわからない人々」に流されてしまうばかりではないか。何かやろうとしても、その濁流にやる気も流されてしまうくらい、ひどい有様がずっと続いているように感じる。いい加減、どうにかする糸口は模索、共有されながら、実装していくフェーズが必要だと思う。

 同時に、ひよっこではあるが一人文学徒として、「ただ意見を言えばいい」というレベルばかりで政治が語られることにも違和感を持つ。自分自身、「政治」そのものを専門にしているわけでもなく、注視して見ているわけではない。この2年間は、むしろそういった情報をなるべく見過ぎないように気をつけていたので、尚更、わからない。一方で、政治哲学などの議論に多少なりとも触れる中で、根本的に「政治」をどう位置付けるのか、ただ「民主主義」が重要だと言わずにその根本的な論理や困難をどう捉え、今後に向けて練り直す基盤にするのか、と言っためんどくさい議論もお座なりにしていいとも思えない。

 特に今は、これだけ「うまくいっていない」ことが歴史的に見出されているように思う。「政治」の問題は特段、日本だけの問題というわけでもない。とは言え、個人レベルでできることもかなり限られている。強いて言えば、自分が学んだ知見を共有したり、その学ぶプロセスを言語化して次なる者に継承する土台作りにすると言ったところだろうか。こうした作業は、今すぐに効果があるようなことばかりではないし、取り組んだとしてもどう効果があるのかも目に見えにくい事ばかりだ。多くの人がやりたがるようなことでもないと思う。

 というわけで、比較的しつこいことを自負する自分だから取り組めるという側面はあるだろう。微々たるものではあるものの、地道にやれることは続けていきたいと思う。

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