本、哲学、場、仕事、生活とかについての雑記

「本をもらってくれないか??」と突然、連絡をもらった。up Tsukubaのオーナーであるじゅりさんからである。昨今のコロナ騒動だけでなく、論文投稿や学振の申請準備に集中していたこともあり、ここ2ヶ月ほどup Tsukubaにはお邪魔していなかった。じゅりさんとのやりとりはいつも突然である。だが、その断絶性と当然性を許容できる関係は僕にはそこそこ心地よい。「いよし」と思い立ち、本を回収しにup Tsukubaに向かった。

upに着いた直後、じゅりさんは見当たらなかったものの気にせず散策した。どうやらこのコロナ下でupはドロップインでも予約制になったらしい。テーブルの上に「としちる向け」と付箋が貼られたものを見つけた。主に「ゲンロン系」の本がまとめられていた。しかし、その中にはない、最近出版された『哲学の誤配』が別の箇所に置いてあるのを見つけたのでふと読み始める。前から思っていたのだけど、この「誤配」という概念は便利で、こうした様々な意外性として日常に浸食して現れる。

最近、後期デリダについて主に論じる『ジャック・デリダ 死後の生を与える』の読書を進めている。デリダの哲学・思想は、「脱構築」というワードや「ポストモダン」の代表として一般的に認知されている。そうしたワードは難解な哲学を切り崩すものであるが、そのロジックとして理解するには、歴史・政治・言語・文化に対する広範な理解を必要とし、当たり前だけど難しい。だが、勉強すればするほどやはりデリダは先駆的に現代社会の諸問題となりうる条件について考えを巡らしていたことがわかる。デリダに限らず、フランス現代思想がそうなのだけど。

じゅりさんとは、そういうめんどくさい話をするわけではない。主に僕は「壁打ち」相手としてまちづくりのことやコミュニティに関する知見を聞き、僕も同様に「壁打ち」相手として関連する思考や知識を投げかける。「コロナで世界のスピードが落ちたこと事態は、少し思考して、自他と向き合う機会になっているんじゃないか」と僕から話を振った。もちろん、亡くなった方やとんでもなく忙しい事態に陥っている人もいるし、経済的な打撃、社会的な衝撃もあるのだけど。じゅりさんは「そうだと思う」と言ったと思う。そうしておこう。僕が最近、常々思うことはここまでの現代社会(主に10年代)ではとことん「歴史性」みたいなものが蔑ろにされてきつつ、「今ここ」に集約される諸問題や主張に苛まされたことにあると思う。主に「メディア」を介して。マスメディアの影響力は確かに相対的には減ったと思うけど、SNSの現状はそれに回収される形に向かっているし、さらに無限のクレーミングやショッキングな出来事に疲弊するだけ疲弊して、良くなっているかも良くわからないまま鬱憤と興奮(こっちは趣味などの文脈でも)がないまぜになった、カオスな空間が出来上がってしまったと思う。

もちろん、そうした「社会・メディア的現状」は世界の一部分ではある。教育、福祉、労働、といったそれぞれの現場で起きている問題もまだまだある。だけども、何かそういうものから離れた空間だったネットにあった、何か新しい文化が作られるという感覚がなくなり、ネットも「現実」に吸収されていく現状になってきたように思う。そうしたことは、個々の人間が体験することとしてではなく、プラットフォームが提供して作られてきた現状でもある。クリエイトすることそれ自体が、そうしたメディア環境に規定されているように思える。それは「自由」の感覚をもたらすものというよりも、再帰的に自他の「自由」を満たす高揚感を与えられているように見える。どこか人間的なものから遠ざかって、結局のところ、動物的に振る舞う方向性になってしまっている。

ここらへんの経緯や議論は、「アプリケーションはあの顔たちを憶えているか 2010年以降の画像・カルチャー・SNS」に興味深い知見がまとまっている。批評紙「Rhetorica#4」に収録されているが、今は売っていない。

じゅりさんとの会話に戻ると、ローカルにはそういう「(批評的)編集」する志向性を持った人が少ないという話も今日はした。現代思想や批評の議論を抑えるとまではいかないにしても、「はい、イベントやりました、ワークショップやりましたー」で終わってしまうのだ。現場で異なる人と人の間を繋ぐ枠組みがないという。もちろん、人のネットワークを広げればいいという単純な問題ではないけども、「劇場」的な「魅せの演出」に終始してしまっている、という捉え方であればその通りのように見える。だから、特段、議論も深まらないし、調査・分析する技能が上がるわけでもないし、想像力も養われない。少なくとも、プレーヤーとして積極的に動く人には必要な能力だとは思うのだけど。

結局のところ、こうした現状を見つつ、「僕はどこから手をつけるといいのだろうなー」といつも通り逡巡した。最近、これくらいの脱力感でいいのだなと自分で勝手に納得してしまっている。仕事としてやるべきことはこなす(例えば、研究活動)、それ以外は脱力しつつやれることを積み重ねる。ここら辺の区切り方、あるいは態度は、論文執筆や学振申請書を書き上げる中で、築かれたように思う。

そういう経緯もあって、「仕事」というものは今一度、アイデンティティとか、公共性の問題として、つまりは「仕事に対する応答性(責任)」を人間のあり方の問題として考えつつある。例えばだけど、仕事ばかりに専心していた人が退職した後に気力を失う、といったことがあるらしい。まさに、仕事にその人のアイデンティティとしての帰属がかなりの程度結びついてしまった事例だと思う。公共性を論じた政治哲学者のアーレントは人間の条件に「労働、仕事、活動」を挙げたけど、今の社会ではこれらは別々に分けられるようなものではなく、かなりの程度、ないまぜになってしまっている。そんな中、「人間っぽい暮らし」とはどんなものなのだろう。「普通に生きる」とはどういうことなのだろう。ハイになりきらずに、「普通」なんてものはただの幻想と簡単に割り切らずに、こんな「普通じゃない世界」の中でそれでも「普通に生きる」ことは案外というか、とても難しいことのように思える。

そうした想像力、かつそうした困難な生活ができるような状態、それを達成してしまっている事例があるなら知りたいなと思う。最近は、研究に集中して、外を見ることを避けるようにし過ぎてしまった。もう少し、足と手を動かしながら、頭を回転させていきたい。