「研究とはなにかってことだよ」

 もうすぐでゲンロンに入社して1年になる。ぼくがゲンロンに入社したのは2022年のGWあけで、ゲンロンのアルバイト募集を見たのはたまたま4月1日に流れていたツイートを見つけてのことだった。大学院での研究生活にコロナ禍も重なり長いこと引きこもっていたし、少しばかり金銭的な余裕ができた時期で、けれども非常勤講師の応募にひとつ落とされていたちょうどのタイミングで、嘘ではないよなとか戸惑いつつも思い切って履歴書を送ったことを覚えている。

 戸惑った理由は、博論の執筆などもろもろある中で「ゲンロンに応募して大丈夫だろうか」と思ったことにある。入るからには「なにか」あることは間違いないとわかっていた。とはいえ、アルバイト募集にはカフェのスタッフとある。ならば、カフェで虎視眈々とゲンロンでの仕事をこなし、もろもろ学ばせてもらえばいいだろう。そう考えたのだ。けれども、ぼくの目論見は見事に崩れ去った。

 まず第一に、カフェよりも編集部バイトとして働くことになった。ちょっとでも編集っぽい仕事ができそうな人は自動的にそうなるらしい。どうやらカフェスタッフに固執していた場合、つくばから通うぼくは面接に落とされていたそうだ。初入社の際、社長の上田さんから「カフェも編集もするやる気のあるやつ、やりたいことがある人にはいい環境だと思う」と言われたものの、バックパックひとつで世界を旅して自分探しをする大学生と近しい心境だったぼくは内心ではじわじわ戸惑わざるをえなかった。

 第二に、編集とカフェスタッフで雑事をこなすだけではなく、ゲンロンのコンテンツを考えることが思いのほか求められた。これはけっこー予想外で、ぼくが前に働いていたイベントアルバイトには一切なかったことだった。だから、ゲンロンでコンテンツになりそうなネタを探し、考える必要があった。加えて、ぼくはそこまで熱心にゲンロンのコンテンツをくまなく読みこなしていたわけではなかったため、これまでのゲンロンの登壇者や議論を追う必要があった。これがけっこー大変。勉強にはなるし、いつか似たようなことはやろうと思っていたが、少なくとも博論を書いてからだと思っていた。完全に予想外。

 第三はまだ詳しくは語れないものの、いわゆるゲンロンの院生チームのまとめ役っぽい立ち位置になることになった。いわば、ゲンロンに深くコミットするきっかけと立場をいくばくかいただいた。これも完全に予想外。金がなく、生きることに必死で、学振を取ろうと研究しつつも、つくばでラーメンを食べて満足していた人間が突然、なにか別の世界に迷い込んだようなもので、いわば青天の霹靂状態。

 とある会食で「ぼく、研究の道に進むつもりで準備してたんですよ」と思わず東さんにこぼした際、言われた一言が「研究とはなにかってことだよ」だ。これは、人文知のあり方が生成系AIでも出力できるようなパターン認識とも類似していること、ぼくが記号論やディスコース研究を専門にしていることを踏まえてかけられたことばだった。

 そのときはあいまいな返事の仕方しかできなかったけど、いま、博論を執筆しながらも人文知における研究とはなにかをあらためて考えている。ぼくの研究は、人文知と人文社会/認知/経験科学が幾重にも交叉するものだ。どんな研究でもなにかしらの意味で学際的ではある。けれど、ぼくが依拠する専門領域がなにかをあえて言えばおそらくぼくは「人文学」と応える、そう思った。

普遍的な規則を見出す「科学」とは異なる、歴史的にもたった一度きりの出来事とその経路を考えるのが「人文学」だ。では、その人文学を研究するとはどういうことなのだろうか。そこからどんな意味を引き出し、語れるだろうか。その意味は、「人文学」を研究する学術共同体には限らない。なぜなら、自らをも研究の射程に含む人文学である以上、思わぬ他者との出会いに開かれているからだ。

 奇しくも、ぼくとゲンロンとの出会いもそんなものだった。ぼくにとって偶然だったことが、いつのまにか必然な出来事へと変わってしまった。人文学にとって研究とはなにか、変わりゆく社会のなかで人間にとって変わらないなにか、そんなことをあらめて考えてみたくなる今日このごろだ。

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