うざったいアイデンティティ

 人類学は人類を扱うデカい野望を持った学問である。とりあえずそう言ってもいいだろう。けれども、ぼくが観察する限り、異文化の地に赴き、調査地と自らの社会文化との非/対称性、調査者と被調査者との関係に悩む人類学者はマゾっぽく見える。人類という種やその進化をなんでも扱ってやるというサゾっぽさとマゾっぽさが人類学には入り混じっている。それが人類学者の実態を読み解く視点だとぼくは長らく考えていた。

 かくいうぼくも(一応)人類学をやっている。けれども、ぼくは長期のフィールドワークに赴いたこともないし、する予定もない。インタビューはするけど、人の自己認識やら主張といったアイデンティティにさして興味がない。もちろん、大事だとは考えている。けども、日常的な感覚のベースにあるのが「好きにすればいい」、「あなたはそういうゲームをしているのね」、だからだろう。

 強いていえば、研究に関することなら、その人が依拠している学問とのイデオロジカルな関係やら、社会や他者との向き合い方や彼らの語りによって及ぼされる効果が気になる。あと、その人の好き嫌いの語りに表れる自意識や、問いと中身(主張や論証)なら気になる。

 よく出会うのが単なる好き嫌いや自意識の強い実存を主張してくるやつだ。ハッキリ言って興味がない。人類学者でもいつもいつも他者に関心があるわけじゃない。好き嫌いを主張するのはいいが(避けられないし)、せめて問いと中身をセットで語ってほしい。でないと、ぼくはその語りの背後にあるイデオロギーや論点を材料に考えるだけだし、その好き嫌いを元にした社会への効果についての良し悪しを判断する。

 実存は知らん、中身で説得してくれ。

 こう書くのも、こうした出会いが一回だけじゃなく、違う人と場面で何度もあるためだ。中身があるなら話をする/聞くけど、だいたいない。そういうのは正直もう遠慮したい。

 もう少しちゃんとした理由もある。自らの自意識に悩むのはその無限の解釈ゲームに陥ってしまう。そのことに無自覚でいる気に自分はなれない。昨今のアイデンティティ・ポリティクスにも、似た問題が其処彼処に宿っている。

また、いくらでもアイデンティティに帰着した自分の経験を社会問題に還元できてしまう。単純に「声をあげる」ことが個々人や社会のためになることばかりでもない。その両義性を考えない姿勢は、ぼくには思考停止に思えてしまうのだ。

 先日参加した学会にてそんな話をぼんやりした。いわゆる、言語社会化という人が社会性を身につける過程を研究する研究者のかたと話をしていて、最近、同じ研究プロジェクトをするフランスの仲間もそんなことを言っていたという。ようやく「責任」について考えるフェーズに来たのかもしれない。人類学らしい、デカいことを考えていけるフェーズが。ちょっと遅すぎる気もするのだけど・・・

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