傷つきにくいコンテンツと自己責任

 今日、「強風オールバック (feat.歌愛ユキ)」なるMVを見た。なんというか、かつてのMADを思い起こさせる「ネットの悪ノリ」を薄めたコンテンツでけっこー面白いw

 動画のサムネールを見てもらってもわかるように、少女と強風の苦闘が歌われている。オールバックになってしまうほどの強風が果たしてどのレベルなのかはわからない。ただ、ぼくは小学生のころ、確かに強風に吹かれて進めない経験をし、この動画を見ながらそれをつい思い出した。

 じつはこの動画はオリジナルで最初に見たのは、この二次創作がYouTubeのおすすめ動画で出てきたものであった。こちらはなんだか知らないYouTuberがガチで強風を再現し、身体を張って子どもが夢見るような再現を大人のパワーで実現している。けっこー笑わせてもらったw

で、このネタはカップヌードルのCMにもなったらしい。なんとタイアップ。「強風オールバック」にはいくつも二次創作のネタにされている。

 この作品は基本的に「風が強い」しかいっていない。つまり、日常だけども非日常の一瞬に浮かぶ感情を切り抜いたものでしかない。それを、リズミカルなアニメーションとボカロ的な中立的な歌声で歌われる。だから耳に残る。

この「悪ノリ」だけども、誰も「傷つけない」コンテンツというのは、あまり見ないものだったのかもしれない。アニメーションであることも「傷つけない」ことに寄与しているのだと思う。

 ぼくはこのコンテンツを見て、やはりいまのトレンドは「傷つけない」で、裏返せば「傷つきたくない」コンテンツを人々は求めているのだと思った。この傾向は自己責任研究をする上でも、年々、学部生とやり取りをする上でもずっと感じ続けていたことだった。

 ざっくり説明すると、現代社会は個人化が進み、何が起きるかわからない社会であり、それを個人が引き受けないといけない、だからその不安にさらされた個々人が親しい人々との間で承認関係を築こうとする。言い換えれば、その個々人の自己責任という名の不安を承認で埋めようとする。ネットのファン活動(ファンダムとも呼ばれる)で起きている心理も似たメカニズムがあるのではないだろうか。心理にはたらくメカニズムはひとつじゃない。

 とはいえ、現代は個々人が声をあげるアイデンティティ・ポリティクスの時代でもある。これは傷つきたくないというよりも、傷つけあうことを求める行為だ。これがSNSで跋扈している状況を感じ取っている人も多いだろう。ぼくが思うに(おそらくそうなのだが)、現代社会のこの傷つける行為と傷つきたくない心理は相補的に作用している。つまり、傷つける人々に対する反応を見ながら、傷つきたくない心象がつくられている。だとすれば、SNSばかり見て考えるのは視野が狭くなってしまう。

 と、こういう分析はしている。けど、最近思うのは自分でも「で?」「So What?」と。

 この流れがいい悪いと単純には言い難い。強いて言えば、「傷つきたくない」と思ってたとしても、人は生きてれば「傷つく」し思いのよらない形で他人を「傷つける」。だから、あまりにも強く「傷つきたくない」と思う社会的な無/意識(≒イデオロギー)が強まることをぼくはいいとは思わない。

 けど、こうした分析≒社会の解明にどのような意味があるのか。傷つきたくないと思うことは変なこととも思わない。むしろ、とても人間的だろう。ぼくもできることなら傷つきたくない。仮に、「傷つきたくない」という欲望が変わることがある人やある社会にとって大事だったとする。けど、その解明をしただけじゃ欲望は変わらない。では、その分析の上で欲望を変えうるような営みとはなんなのか。

 最近、この「欲望が変わる」、あるいは「欲望の矛先をほんの少しそらす」ことにぼくはどう寄与できるのかについて考えている。ぼくがこのサイトで記している言語人類学は「分析≒解明」を徹底化した学問だ。言語人類学の考え方だけでは、欲望は変わらない。「強風オールバック」の分析ができるだけじゃしょうがないのよね。

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