明日はいよいよ博論の公開ヒアリングと呼ばれる最初の審査がある。発表スライドもレジュメも作成した。あとは質問対策やら今後執筆するものを考える必要があるが、直前でそこまでやる気もでない。
なんとなくテリー・イーグルトンの『イデオロギーとは何か』を読み始めた。こちらの記事やこの記事でも書いたように、言語人類学ではイデオロギーは誰しもが持っている無/意識として中立的に扱われる。対して、イーグルトンのイデオロギー論は主に政治的なイデオロギーが議論されている。だから積極的に読んではこなかった。
とはいえ読み始めると面白い記述があった。
ふつう誰だって自分で自分のことをデブとはいわない。こうした意味でいうところのイデオロギーとは、強いていえば口臭のようなもので、他人だけがもっているものなのである。
『イデオロギーとは何か』(22頁)
要するに、自分では自覚できないが、他人からは知覚できるもの、それがイデオロギーの特徴だという。ただ、幾多のイデオロギーの定義を比較検討するなかで言及しているのがこの引用文で、これがイーグルトンの主張なわけではない。
なぜそんな部分的な記述が面白いか。それは一部の言語人類学ではイデオロギー論の真髄を「自らに対するメタ批判/科学」と主張しているからだ。かつてのぼくはそれに強く首肯した。いまでも、それなりにそう思っている節がある。
けれども、どうだろう。普通、人間は自分のことはわからないし、わかったところで他人から「あなたの口は臭いよ」と言われたらそれまでだ。多少は自覚的になれるだろうが、とはいえそれにも限界がある。特に、家や部屋に宿った匂いはなかなか消えない。同じように、社会に広がるイデオロギーもそう簡単には消えないだろう。
だから、イデオロギーを匂いの比喩で捉えるのは悪くない気がした。コロナイデオロギーも人々が知覚(錯覚)したのは疑わしい匂いだったのかもしれない。