ミスチルとアンチノミー

 暑いといわれるが引きこもっているせいか、あるいはサッカーをずっとやってきた人間だからか、そこまで暑いとは感じない気も。どうもこんにちは。としちること、青山俊之です。ぼくのニックネームは高校サッカー部時代にミスチル好きから友だちにつけられたものです。ミスチルを一番好きだったのは中学生のころなので、そのときにはネタのひとつでした。いまでは風前の灯・・・とはいえ、たまに聴くしあべこべな言葉づかいはあいかわらず好きです。

 ところで、ミスチルは「気持ち悪い」という感想を持つ人もいるそうです。確かに生々しい色恋沙汰や「大人の事情」が歌詞にされています(youthful daysとか)。桜井さんは歌う息継ぎでめっちゃ素早く首を振っています。声も高い。けれども、あべこべな歌詞と合わさって、フィクショナルだけども妙にリアリティに富んだ世界観が歌われているようにぼくには思えていました。

 先日、記した「青い鳥の行方」の最後に次のような気づきを書きました。物語はがんばれば救われるわけでもないが救いがないわけでもない。つまり、幸福と非-幸福の両義性、あるいは混在こそが世界のリアリティなのかもしれないと。ミスチルは確かに気持ち悪いが、同じくらい意外に潔い。むしろ、それこそがミスチルのフィクションとリアリティを成り立たせるアンチノミーにすら思えます。

 静と動といったアンチノミーは、身体を駆使するスポーツだけではなく、物語など、その活動やメッセージをより際立たせる効果がある。これも言語人類学でいうところの詩的機能のはたらきです。ぼくは昔からこのメタ的なアンチノミーが好きでした。同じぐらい、サッカーを通して自分を振り返るように、あるいはこの雑記と同じく日記を書くように、私的な「わたし」を考え続けてきました。思い返すと、メタ性とわたし性、その混在を刻んだのは「Mr.Children」だった気がします。そんな私的で史的な積み重ねが現在の自己責任研究につながったのかもしれない。

 ことばは幻想でもあるが、まやかしも続けば現実になる。暑いと言われたら暑いし、自然環境のせいだと言われたら環境問題が気になる。幸福だと思えば幸福なのかもしれないし、こんな世界でいいのかと問われればそうじゃないのかもしれない。けれども、本当のところどうなのか。最近、混迷化してバラバラになった世界における問いの価値について考え直す必要性を感じます。

 そういえば、最近、この個人サイト『T LABO』のメンテナンスをしました! 記事アーカイブページがちゃんと機能したり、メニューを整えたり、サイト概要にミニ・サイトマップもつけて更新しました。本当はその紹介をするつもりだったのに気づけばミスチルの話に・・・そのうち、問いの価値と絡めて、ネットコンテンツのフローとストックについてもあらためて考えたいなとかいろいろ思うことがあるんですがまた気が向いたときにでも。

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