わたしと世界をつなぐ自己責任論

 ぼくは自己責任論の研究をしている。特に中東地域日本人人質事件と呼んでいるイラク日本人人質事件とIS(Islamic State)日本人人質事件が主な事例だ。自己責任に関する議論はさまざまなジャンルに波及する。たとえば、新自由主義(≒資本主義)、社会的不平等(社会保障、引きこもり、能力主義 etc.)、地方自治、教育(≒しつけ)やそれに関する社会文化的な倫理観など、枚挙にいとまがない。

 ぼくは自己責任をめぐるこの複雑性に加えて、その解釈的あいまい性に着目し、「自己責任」という文字記号に焦点化して考えてきた。ぼくの研究は自己責任をめぐる言語・コミュニケーション実践に着目する。こうした研究はディスコース研究と呼ばれる。

 ここでいうディスコース研究は哲学、社会学、人類学、言語学、メディア研究と広い学問ジャンルで扱われるものを総称したものだ。自己責任論もディスコース研究もマルチジャンル的で単一化できない。それぞれの言及のされ方もバラバラであった。そこで、ぼくはあえて「自己責任」そのものの文字記号に着目し、全国新聞を中心にその言及を調査しつつ、日本社会に自己責任を広めるきっかけとなった中東地域日本人人質事件を事例とし、バラバラな学問も自己責任もまとめて扱うこととした。

 先日、とある人に相談をしていたときにこのような説明をしたところ、情報量が多いから研究について「二言で説明してくれ」と頼まれた。そこでぼくが答えたのが「自己責任はわたしと世界をつなぐことばだから」だった。この答え方は意外だったらしく、ぼくのこれまでの話や姿勢からはあまり見えないことが問題かもしれない、ということばをもらった。

 ぼくは自己責任研究をしているなかで常に意識していたのは、これが「わたし」の問題であると同時に、「世界」の問題でもあることの否定と肯定の両義性であった。現代は自己責任が個々人に徹底化された時代である。ときにそれは過剰な不安や懲罰的な責任が個人に寄せられ、ときにそれは個々人の自由を根拠づける。そのため、自己責任研究は事例であると同時に理論でもある。さらにいえば、刷新される経験から常に問われるもの、それが自己の責任の取り方、つまり実践的な問いでもある。責任をめぐる人々の行為や規範は社会的なしつけを映し出す。そこからの解放、あるいは啓蒙の問題も自己責任研究は示唆を与えてくれる。ぼくはこのなんでもありなところに惹かれて自己責任の研究を始めたし、そういうつもりで会話にせよ記事にせよ語ってきたつもりだった。

 けれども、それはあまり伝わっていなかったのかもしれない。確かに、まだまとまって語る機会はなかった。ようやく、いま書いている博論でそれをし始めたところだ。どうやら情報を圧縮して伝える工夫が必要らしい。やってきたつもりだけど、もっと努力が必要だとわかった。がんばります・・・

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