失敗、心機一転、習慣

 最近、大きな失敗を経験した。その詳細は書けないものの、ぼくの人生にとって大きな転機となる出来事だったことはまちがいない。一週間ほど、不安・焦燥にまみれたものの、ようやく少しばかり落ち着きを取り戻しつつある。

 焦りを取り戻せつつあるのは、かつて浪人生となった経験など、幾度となく「壁」にぶち当たって乗り越えてきたからだろう。とはいえ、その自負が逆に「自分はこんなものだ」とか縛らないようにしたいものだが、人間というものはいくら気をつけても繰り返してしまう問題がときにある。それはその繰り返しを経た後になってはじめてわかるというものだ。今回もその類のものだった。今回の苦い経験を心に刻むことをまずは大事にしたい。

 一方で、人生で起きる出来事は同じことばかりではない。どんなに似た過ちでも、絶対に微妙に異なるし、また細部を見れば一回限りの固有の出来事だ。失敗したとき、その後悔を感じるとき、どうしても「同じもの」に引っ張られてしまうときがある。きっとその感覚はぼくだけではないだろう。「またこれか」と思ってしまう。被害者意識特有のなにかがある。だが、あくまで冷静に踏みとどまって細部を鑑みるように今回は意識したい。実は、そのアドバイスをとある方からいただいたからだ。

 大きな失敗をしたとき、あるいは打ちひしがれるほどなにもできなくなるとき、他者の存在なりことばがけが大きな支えになる。浪人生のときも、今回もそう。今日もかつての友人と電話で話す機会があり、さまざまな助言をもらった。ときに自分が感情を吐き出しつつも、ときに第三者の目線で冷静にことばを紡いでくれて、自分を振り返るまたとない機会となった。その友人にすごく感謝している。

 なんの捻りもない話ではあるけど、こういう経験をするとき、あらためて「幸せになりたいな」とかベタに思う。ポエティックでどことなくダサいような気もするのだけど、そこそこ本心からそう思うのだ。特に最近は自分の趣味と言えるものはある程度は満喫してしまった部分があって、そうした趣味ごとにも大きな活力が湧かない。昔好きだった、マンガやアニメ、あるいはガジェットにもほとんど好奇心が湧いてこない。また研究についてもまったく捨て切ったわけでもないのだけど、何周か思考が周って昔ほどの情熱が出てこない。だから、今度はもっと意識的に他人のためになにかしたいなという気持ちが沸々と湧いてきている。少しばかり心を整え、ほんの少し気持ちを入れ替え、ちょっとだけ心機一転しながらも、掲げてきた志を忘れずに次に向かっていきたい。

 ところで、ぼくは「習慣」というやつは極めて厄介な性質を持っていると常々考えてしまう。自分自身が知らぬうちに身につけた習慣は、親や教師といった社会から学ぶものでもあるし、自分が「こう思っていた」「こう考えていた」といった思考や行いは他者からはまったく違うものに見られることもしばしばだ。そして失敗というやつは身構えていたとしても不意にやってくる。そのときになってはじめて、自分が振る舞っていた振る舞いが習慣として繰り返す不気味な意味に気づく。ぼくがそうであるように。だとすれば、この習慣とはなんなのか。どう習慣になったのか。自分と他者、あるいは社会との間で習慣はなにをもたらしているのか。そこにはどんな問題があり、その問題はどう訂正可能なのだろうか。

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