「あなたは『べき思考』に陥っている」
かつて上司にそう指摘された経験を思い出した、というツイートを見かけた。完璧主義は未熟さの証拠であり、べき思考は不安への防衛機制だという。
なるほど確かにそれはそうなのかもしれない。ぼく自身も「べき思考」を持つ人間で身に覚えがある。不安に思うからこそ先を読んで考えるし、その先に進むための行動をとるし、時に他者に働きかける。
一方で、正論をぶつけても、その通りにうまいように人間も組織も動くことはまれだ。むしろ出る杭は打たれる。そうした人間の理不尽さ、有体に言えば複雑さを知る人々は、むしろ「正論で人は動かない」と怒る人々に冷たい眼を向ける。そしてそうした「嘲笑」に余計に怒りは燃え広がる。
この「正論」と「現実」のぶつかり合い。これはたぶん、幾度となく繰り返されてきた/いくであろう人間の悲喜劇だ。「べき」を振りかざす若者(あるいは若者でなくても)と、それを「また始まったか」とばかりにいなす大人たち。どちらの言い分も、少し引いた立場から見れば「ああ、わかるなあ」と思える節がある。
結局のところ、ぼくたちがこの複雑な社会で生きていく上で大切なのは、バランス感覚と、そして「コミュニケーションコスト」という、なんとも世知辛いが、しかしリアルな視点しかない。「べき」を主張するにはエネルギーがいる。相手の「べき」を受け流すのにも、理解しようとするのにもエネルギーがいる。ぼくたちは、日々このコストを無意識に計算しながら、人間関係の海を泳いでいる。
「いやいや、そんな中途半端でいいのか?」
きっと、こう感じる人がいるだろう。「おかしいことにおかしいと言えた方がいいじゃないか」「それはただの事なかれ主義じゃないか」「魂を売ってはいないか」と。その気持ちは、痛いほどわかる。ぼく自身、心の奥底ではそう思うタイプだ。
「あなたは『べき思考』に陥っている」──冒頭で触れたツイートのように、それを不安や未熟さの表れだと指摘する声もある。確かに、過剰な感情や行動は人間関係の硬直や押し付けになる危険性が常にある。しかし、だからといって、「べき」を語ること自体を封殺してしまえば、そこには何の改善も生まれない。
「まあまあ、そんなに熱くならなくても。うまく『いなせ』ばいいんですよ」
こんな声もある。「いちいち真正面からぶつかるのは非効率だ」「空気を読んで、うまく立ち回るのが大人の知恵でしょう」と。これもまた、一つの真実かもしれない。日々を平穏に過ごすためには、ある程度のスルースキルは必要だろう。
しかし、ここで立ち止まって問いたい。その「いなし」は、本当に状況を分析した上での戦略的な判断なのだろうか? それは、ただ「考える」ことから逃げ、面倒なことから目を背けているだけではないのか?
確かに世の中の多くは空気や理不尽で回ってる。だが、「そういうものだ」とただ受け流すだけでは、知らず知らずのうちに、その理不尽さに加担してはいないだろうか。正直に言って、ぼくはこの嘲笑タイプにこう問いかけても無意味だろうとも思う(嘲笑う人ばかりではもちろんない)。ただ、ひとまず、考える人と嘲笑う人、どちらを応援するかといえば断然に考える人だ(しかし、なんだかんだ嘲笑う人に出くわすのが社会というものなので、考える人も硬直しすぎてはいけないと思う)。
「べき」を声高に叫ぶだけでも、それを完全に無視して「うまくやる」だけでも、何かが足りない。
以前、ぼくは「AIになりたい」というエッセイを書いた。そこで掘り下げたのが、理不尽な現実の中で「考えてしまう」人間の生きづらさの問題だ。そこで提案したのが、「考える」ことをやめ、AIのように現実を受け止め、反射的に最適なアウトプットを出すことだった。
もちろん、それは簡単ではないが、「考えない」こともまたひとつの社会を生き抜く技術なのだと思っている。ぼくが語った「AIになる」とは、いわば「考える」ための「考えない」技術であり、しなやかに生き抜くための遠回りの戦略だった。
だからといって、べき思考を完全に捨てるべきだとは思わない。それは社会や組織にとって、時に必要な軌道修正のシグナルであり、停滞を防ぐスパイスでもあるからだ。「おかしいことはおかしい」と感じる感性は、大切にしたい。
けど、人生は有限だ。あらゆる物事に「大人のように正しく対処できる」というのもまたキレイごとにしか過ぎない。だから、着地点となるのは「バランス」と「コスト意識」なのだろう。
しかしそれは、思考停止した中途半端さの肯定ではない。両極のリスクを理解し、その上で、時には「べき」を静かに磨き、時にはAIのように振る舞い、そしていざとなれば環境を変えるというカードも切りながら、しなやかに、しかし確かな意志を持ってのらりくらりと進んでいくこと。
完璧じゃなくていい。いつも正しくなくてもいい。この綱渡りのような日々の中で、自分なりの「べき」と現実との折り合いを見つけ出していく。それこそが、「権力を持たない人間のべき思考」の、リアルな姿であり、可能性なのではないか。
とはいえ、ここで語っていることは、比較的に「べき思考」を持った人間のほんのささやかな考察にしかすぎない。ここでサラッと語っている以上に、現実も仕事も、つまりは人間関係は複雑だ。だが同時に、語り継がれることばを編み出す、その仕事への情熱も難易度も計り知れないほど困難なものだ、と「考える人」を「嘲笑う」人たちにも知恵を絞って訴えたいとすらぼくは思う。それは今、博士論文を書き終え、会社で働きつつ、書籍化に向けた執筆活動をしている自分としては痛いほど身に染みる課題でもある。
その新たな執筆活動で、最も加筆しているのが、実は「AI」の話ではなく、個の徹底から普遍につながってしまうような「文学」ならではの可能性の話でそれもきっとまじめな人には伝わる議論になっていると思っている。それはまた別の機会に。ではでは。