この世にある「ガチ」を二種類あげるなら、ぼくがいま思い浮かぶのは「意識高い系(笑)」と「真剣(ガチ)」である。もしこの二種類を区別するとしたら、人はなにを基準に「この人はただの意識高い系だな」と落胆し、「この人は真剣なんだ」と腹落ちするのだろう。
ぼくが思うに、それはヨソから見た「適切なリアリティ」が漂っているかに掛かっている。ただ正直に言えば、昔のぼくにはこの感覚がなかった気がする。
この変化が明確にできたのは、博士論文を書き上げたからではなく、その書籍化に向けて初稿を書き上げた影響が大きい。ぼくが研究テーマとしたのが、「日本の自己責任論」、とりわけ中東地域日本人人質事件だった。
振り返ると、2015年1月、あのイスラム国(IS)日本人人質事件の際に人質となった彼らの「自己責任か否か」を問い、「自己責任だ」「いや、それはあまりにも簡単すぎる」と思ったその瞬間から、ずっとその迷いと問いに追い立てられてきた。この研究を経て痛感したのが、日本の「失われた30年」という暗い現実と、個々人の生きる苦楽であった。
「意識高い系(笑)」と揶揄されるような、ある種の自己啓発なり、社会の雰囲気に駆り立てられた「イキリ」も自己責任論の一種だったと見ている。だからこそ、「意識高い系(笑)」ではなく、「真剣(ガチ)」にきちんと近づこうとしてきた。
ただ、その姿勢は人様から見ればぼくの意思とは関係なく、「意識高い系(笑)」だったのではないかと思う。なぜなら、実績も関係値も見ず知らずの人には当然ない。これまで出会ってきた応援してくれる大人もたくさんいたが、同じくらい、「くだらない」と思われてきたのだろう。なぜなら、そこにはヨソから見た「リアリティ」がないからだ。
だが、最近それがわかると同時に、「ここまで来たら引き返す理由の方がもう見当たらない」とも思ってきた。問いを立てる前の場所に戻るつもりはない。
それは覚悟が決まった、という感じとも違う。むしろ、あれこれと「引き受けねば」と思ってきた部分が削ぎ落とされてきた、という感覚に近い。いまは、どんな現実に目を背けずにいたいかだけは、以前よりもはっきりしてきた。
ここまで来て、どうしても避けられなくなってきたのが、いわゆる「大衆」とどう向き合うのか、という問いだ。最近、YouTubeで動画を出し始めたり、会社員として働いたりしているのも、自己責任研究の先に行くために、もっと多くの人々と新たな「関係性」を紡ぐ必要があると考えたからである。
少なくとも、いまのぼくは研究室や原稿用紙の外にある現実に自分のことばを一度さらさないと、先に進めないと思っている。
その上で悩ましい、というか課題だとはっきりわかってきたのが、ヨソから見た「適切なリアリティ」である。おそらく、自分が見出してきた知見や経験は、どこかで誰かの現実と接続しうるものだと思っている。ただその価値は、関係性があってこそ初めて花開くものだ。
この迷いはしばらく続く。これから先は、正直まだよくわからない。ただひとつ確かなのは、そのわからなさを抱えたままでも、関係を結び続けるしかない場所にぼくは立ってきている、ということだ。
それが「真剣(ガチ)」なのかどうかは、ぼくが決めることじゃない。たぶん、それは関係の中でしか決まらない。