人類学者のグレゴリー・ベイトソンは主著『精神と自然 生きた世界の認識論』(2022年 [1979年]、岩波書店)で、精神と自然が生成変化する形態と機能のダイナミズムを論じた。ベイトソンは講義で、カニの死骸を未知の物体だと仮定し、「それが生物の死骸であることを証明せよ」と学生に問い詰めるなど、多彩な事例を科学的に論じる。ちょっと型破りで理屈っぽい、けどどこか人間味を捨てないのがベイトソンに対するぼくの印象だ。
『精神と自然』の最後の章「Ⅷ――それで?」の冒頭にて、父・ベイトソンと娘との語りで次のやりとりが出てくる。
娘 それで? 人々にしみ付いた前提についての話と大いなるストカスティック・システムの話は聞かせてもらったけど、その先は――世界がどのようであるかは――読者の方で想像しろって? といっても――
父 待て待て、想像力の限界についても私は話さなかったかな? 世界のありのまま、the world it is なんてものを捉えることはできないと。[…] 『精神と自然』(379頁)
本文と同じく理屈っぽくベイトソンは娘に説明するが、娘はすんなりと納得しない(そりゃそうだw)。読んでいると、思わずクスっとするやりとりに出くわした。それがタイトルの元ネタで、本当はこう書かれている。
娘 それで? この本を書いてどうなると?
父 まあ一種のプライドになるな。海に飛び込んで集団自殺をやるレミングの中に、一匹くらい自分たちの行動をノートにとって「それみろ、言った通りじゃないか」と言いながら死んでいくやつもあった方がいい。海への狂走を止められるなんて思ったとしたら、それは「そらみたことか」と言うのよりもっと高慢チキな話だろうが。
『精神と自然』(386頁)
※ [名・形動]《「ちき」は接尾語》いかにも高慢で、憎らしいこと。また、そのさま。また、高慢な人をののしっていう語。「あの―め」「―な娘」【参照:高慢ちき(こうまんちき) の意味・使い方 – 国語辞書】
ベイトソンは謙虚に狂走は止められないと言いのけ、さらに自らも狂走の最中にノートを取りながら「そらみろ」と文句を言う。見事な当事者かつ批判者の視点だと思う。こういう清々しくもふてぶてしい人間でいたいなとぼくも思う。そりゃもちろん、ときには迷惑だろうけど。
Ⅰ ――イントロダクション
Ⅱ ――誰もが学校で習うこと
Ⅲ ――重なりとしての世界
Ⅳ ――精神過程を見分ける基準
Ⅴ ――重なりとしての関係性
Ⅵ ――大いなるストカスティック・プロセス
Ⅶ ――類別からプロセスへ
Ⅷ ――それで?
付記――時の関節が外れている