戦後81年になりました。節目じゃない年のほうが、かえって好きに語れる気持ちになり、敗戦の読み直しをひとつ。ひょっとこの話です。
折口信夫という著名な民俗学者がいます。いま書いている博論本の最後に、この折口の話を引いています。
折口によると、日本の文化の根っこには、海の向こうから定期的にやってくる絶対的な神「まれびと」と、その土地に住んでいる「精霊」たちの対峙があると言います。神が来ると、精霊たちは黙りこむ。この沈黙の抵抗を象徴するのが、猿楽で使われる「べしみ」──口をへの字にぐっと結んだ、あの面である、と。
じゃあ神が帰ったあと、精霊たちはどうなったのか。折口いわく、岩も木も草も、みんな好き勝手にしゃべりだして、まるで夏のハエみたいにうるさかった、というんですね。
夏のハエ。まるで現代のSNSのことを言われている気がしてなりません笑
で、重要なのはここから。その騒がしい精霊たちが芸能を生む。里神楽(さとかぐら)には、主役の神のそばで、その荘厳な振る舞いを真似して踊ったり茶化したりする役がいます。ひょっとこの面をつけた、この演技を「もどき」と折口は呼びました。
この「もどく」というのは、なかなか一筋縄ではいかない振る舞いのことなんです。神の権威をからかう役でありながら、同時に、神の難しいことばを観客である人間にわかるように通訳し、解説する役でもある。
批評家の加藤典洋は、この「べしみ」と「もどく」の思想と実践に敗戦国の姿を重ねました。全面屈服して、正しいことばがもう自分の側にはないのが敗戦国です。だからこそ、その事実から目を逸らさないなら、むしろ相手より深いところまで行ける。「もどき」は、負けた者に残された技なのだ、と。
ぼくはこの読みをとても重要だと思っています。だけど、そのままでは今は効かないとも思うのです。
なぜか。まず現代はもう「神」のほうが弱っているからです。まれびとが薄れて、精霊のほうがドッと騒いでいる。全員が夏のハエとして同時にしゃべっている場所では、「もどき」なんて単なるノイズに埋もれて終わりでしょう。
じゃあ、どうするのか。ここのところ、つい考え込んでしまうのはこの点です。まじめに総括すれば正しさの取り合いになるし、誇りを掲げればもろいものを守る話になる。考えた挙句の結論は、反省でも誇りでもない「あそび」こそが第三の道として必要だということです。
ぼくはもともと、人はちょっと無責任なくらいのほうが、かえって責任をとりやすいんじゃないかと考えている人間です。けじめをつけるというのは、言うほど簡単なことではないですからね。それに、ぎゅっと口を結んだ「べしみ」の顔のままでは、81年たっても何も動かない。
そんなわけで、今年もひょっとこの面のことを考えている8月です。
下記動画で「戦後80年談話」と加藤と折口の議論について語っています。