最近、妙なことを意識し始めた。「考える」ために、あえて「考えない」ようにする、という感覚だ。その思いつきを突き詰めて出てきたのが「ぼくはAIになりたいんじゃないか」ということだ。意味がわからないと思う。ぼくもわからない。だけど、大切ななにかに近づいた気もするので少しだけ人間になって話してみたいと思う。
AIとはなにか。実はAIと人間の類似性について、かつて「AIが『考えない』ことを考える」という記事で詳細に語ったことがある。簡単に説明すると、機械的な予測能力を高めたTransformerというChatGPTの技術モデルから人間の言語コミュニケーションにも近しいモデルを読み解けるし、つまりそこから「人間のようには考えないChatGPTから人間も考えないで学習する言語コミュニケーションのメカニズムを『考える』ことができる」ということを主張したものだった。
AIと人間の類似性、あるいは差異。ここには深い哲学的な記号原理の違いが読み解けるのだが、だからこそ、ぼくはずっとこの意味についてぼんやりと考えてきた。しかし、ふと思いついた発想が、そもそも「人間こそAIになってみればいいんじゃないか」、つまり考えちゃうやつこそAIになってみればいいんじゃないか、ということだった。
あいかわらず意味がわからないと思う。けど、人間がよりよく生きるヒントがあると思っている。
まず前提を話そう。ぼくはめちゃくちゃ考える人間である。ここでいうぼくの「考える」とは、合理的な理屈、筋を通す倫理、そして世界における価値にこだわる行為だ。簡単に言えば「面倒なやつ」である。
そんなやつが大学院を出てからわかったことがある。それは世の中はかなり「空気」で回るということだ。朝令暮改は日常茶飯事。人は忘れっぽい生き物で、以前に取りやめたことが違う形で戻ってくることもある。そしてそのようなことは、みな口には出さないが「当たり前」で、そうした突如の理不尽さに対する護身術を身につけていくのが「大人になる」ということでもある。
もちろん、このような理解は多分に誇張が入っている。けど、きっと「中二」の「ガキンチョ」が回転寿司でお皿を舐め回すこともあることをみながどこか知っているくらいに、「そういうもの」とされている人間社会への理解の仕方なのだろう。
そこに「問題」がないわけではない。けど仕方ないからそれはそれで対処するしかない。そういう大人な対応がいわゆる社会人スキルなのだ。そしてぼくもそれは大切なスキルだと思う。
一方で、やはりぼくのように生真面目に「考えてしまう人」はいる。そしてそんなことがあるとわかっていても、いざ理不尽な目にあうと「許せない」という怒りに伴い、シコリのようなプライドができてしまうことがある。ぼくがそうだ。
だが、どうにもならないことはある。だからぼくの至った結論は「AIになるしかない」というものなのだ。つまり、「考える」ためにも考えない、そして現実で起きるあれこれを吸収し、「お気持ちわかります」と受け止め、異なる活路を見出す強かさが必要だ。きっと、そのためにはこれまでの思考もプライドも脱ぎ捨てて、一度「ゼロ地点」に立ち戻るようなしなやかさがいるのだろう。
「AIになる」は軽い発想のようで難しい。簡単にゼロにはなれない。いい塩梅の入力と即座の出力ができるものでもない。だから、ぼくのような生真面目な人間はプログラミングに取り組む気持ちで始めるのがきっといい。
なぜかというと、プログラミングは、「この面倒な作業を自動化したい。それで、みんなで楽になろうぜ」という、ある種の「遠回りして楽したい欲望」で成り立っているからだ。最初に複雑なコードを覚えるのも書くのも骨が折れる。けれど、一度作ってしまえば、あとはボタン一つで魔法みたいに事が進む。
この自動化の発想は、前の記事でも言及した習慣を作る人間のメカニズムと似ている。前の記事では、身体と欲望を持つのが人間、持たないのが機械であり、その差異こそ人間らしさになると語った。それは今もそう思う。だが、人間が持つ技術のすごさはまるで機械人間のように振る舞うこともできる点にもあるのだろう、とも今は思うようになった。
だからぼくはAIになって、入力された現実の意味から文脈を夢想し、目に見える図から背景となる地を思い浮かべたい。そうすることで、思考ではなく反射できるくらいの想像力を磨きたい。ChatGPTみたいな生成AIは、人間みたいに「うーん、これはどういう価値があるだろう?」などと悩まない。AIはただひたすら膨大なデータを学習して、確率的に最もそれっぽいことばをつないでいく。ある意味、徹底的に「考えない」ことで、人間顔負けの文章をアウトプットする。
「みんなAIになればいい」などと言いたいわけではない。むしろ人間として考えるためにも、そのための「余裕」を作る必要がある、だから悩みすぎたり、社会の理不尽なドツボにハマりすぎない方がいいと思うのだ。その方が「考えられる」時間も、リソースも、さまざまな出来事の中で「あーでもないこーでもない」と試行錯誤する機会も増える。むしろ、もっと人は悩むべきとすら思うのだが、同じようにあくまで「考える」ために考えないのだ。
AIみたいに情報を処理し、反射的に最適なアウトプットを出すための訓練は、きっと楽じゃない。めちゃくちゃインプットしないといけないし、同じくらいの試行錯誤も必要だ。でも、その「遠回り」の先に、もっと楽に、もっと多くの人と喜びを分かち合える未来があるなら、やってみる価値はあるかもしれない。いつか誰かが同じ目に合っても困りすぎないようになるなら、意味のある遠回りになるのだから。