社会言語科学会(JASS)に参加して『「文系学部廃止」とはなんだったのか?―批判的談話研究を用いた分析』のポスター発表を行ってきました。 印象に残っているのは「M1なのに参加してえらい」といった類のことばだったのですが、基本的に学会というのはそういった立場とか気にせずに議論を行う場だと思っているので、言うことは言って、指摘されることは指摘されて考えるということができればとの思いで参加してきました。
今回の発表は卒業論文を端的にまとめたものですが、修士論文(予定通りいけば博士論文も)では「自己責任」をテーマにしていることもあって、内容的に深化させられたわけではないので、ちょっともどかしい思いを持ちつつも、積極的な議論ができ、参加して良かったと素直に思っています。当日、さまざまなディスカッションをしてくださった皆さんに感謝しています。
ポスター発表―『「文系学部廃止」とはなんだったのか?―批判的談話研究を用いた分析』
発表では2015年に起きた文部科学省からの通知をきっかけに起きたいわゆる「文系学部廃止論争」について、ある3つのコミュニケーション的出来事を中心に取り上げ、この論争におけるコミュニケーションの連鎖ではなにが起きたのか、各コミュニケーション的出来事の特徴とはなんだったのかを中心に分析をまとめました。
方法論―CDSの弁証法的アプローチ
分析の手法に用いたのは批判的談話研究(Critical Discourse Studies:CDS)の特に弁証法的アプローチと呼ばれるものです。今回のポスター発表で方法論についてまとめたものが下記の文章です。
Norman Faircloughは,社会的出来事,社会的実践,社会構造ならびに,ジャンル,ディスコース群,スタイルの弁証法的関係によって構成されるディスコースの秩序の分析を中心に行う1.Fairclough(1995)は,メディアディスコースを分析するに当たって,ディスコースの秩序とコミュニケーション的出来事の二つの相補的な観点を取っている[柳田:2014].
フェアクラフ(2012)によると,テクストによって表象され,活性化した要素として節合される契機は,ディスコースの秩序を成す,ジャンル(行為),ディスコース群(表象),スタイル(存在:アイデンティフィケーション)という3つの仕方で現れる.フェアクラフ(2012)の弁証法的アプローチは,言語(社会構造)と社会的出来事(テクスト)とそれらを媒介する中間的な実体として存在する社会的実践(ジャンル,ディスコース群,スタイル)を構築するディスコースの秩序の弁証法的な関係を分析することを可能にする.
一方,コミュニケーション的出来事とは,テクスト,ディスコース実践,社会文化的実践の3つの位相からなる枠組みのことである2[Fairclough,1995].テクスト(音声・書記言語,ビジュアル)は,社会文化的コンテクストを参照しなければ,単なる記号的要素でしかない.コンテクストに影響を受ける発信者(テクストを生産する主体)によってメッセージは送られ,受信者(テクストを解釈する主体)が重層的に存在し,テクストの意味は捉えることができ,同時にまたコンテクストが再生成される.
当日の発表資料と元になった卒論のPDF
反省してからPDFをあげようと考えていました。ただでさえ、CDSはその他の談話分析に比べて恣意的と言われる傾向がある(実際にもそうであるし)ので、あまりせっかちにならないよう、ちゃんと意見交換をしてからと考えてです。
それと、(しょうもない出来だとしても)公開することでより正確にどのようなことを知識として得た上で考え、実際の分析としたかを見れるようにしておきたいと思ったからです。こうした情報があり、ディスカッションできるようになることにも意義があると考えています。確実にあとになって「なんて稚拙だったんだ…」と思うことでしょうが、そういった将来の自分にとっての反省の機会も込めて公開します。
古いのとリンク切れで一旦公開していません。
学会参加のファーストインプレッションとポスター発表でのディスカッション
ポスター発表を行って感じたのはJASSでは、ややミクロな分析が多いなということです。それが良いとか悪いとかではないのですが、元の学会趣旨としては「学際的」であることとして立ち上げられていて、初期には社会学的なコミュニケーションの分析もあったのですが、やはり今はミクロな分析がメインだなと感じました。
社会「言語科学」という学問的な性質上、緻密な言語分析や会話分析がメインになるのは「それはそうだよな」という思いを持ちつつ、哲学的関心からディスコース研究に入った自分としてはやや周辺的な立ち位置にどうしてもなるなーということを素直に感じました。
発表は、文部科学省の通知をはじめとしたテクストから読み解ける内容とその政治社会的意味について多くのディスカッションができ、こうした関心としてはやはり科学技術社会論(STS)が持っているという話を聞けるなど、有意義な時間だったと振り返って思います。多元的な分析を志向するCDSは、社会的不平等をもたらすディスコースへ批判的であるという方法論的態度を共有するということで、やはりそういった意味でも今回の分析は「教育社会学」であるとか「高等教育論」としての蓄積や分析を専門的に持ち合わせてる中でより効果を発揮するだろうなとも。学際的とか、多元的というのは口にすると聞こえはいいのですが、実際に研究成果として落とし込むにはとても難しいなとよく思います。批判的な指摘も頂きました。
- なぜこの3つのコミュニケーション的出来事を選んだのか?
- 「通知」として文科省が送る前にあるやり取りも取り入れるべきではないか?
- 抽象的な概念としての「新自由主義ディスコース」と談話の特徴である「対抗/対話ディスコース」が同じ位相で語られていることに違和感を持つ
なぜこの3つのコミュニケーション的出来事を選んだのか?
端的に言うと、論争のきっかけとなった文章である文科省による「通知」と代表的な意見を学術サイドから挙げた日本学術会議のテクストに、特に特徴的な違いを見出したからです。
その他の資料もかなり目を通していたのですが、談話分析としてまとめあげるには特徴的なやり取り、もちろん単に特徴的であるだけでなく、社会的立場としての発言を持ったレイヤーを並べることが重要だったと考えました。
マスメディアやWebメディア、ソーシャルメディアでもさまざまな意見が交わされていましたが、それらを体系的にまとめて談話分析するには相当量の時間とコストがかかったというのも正直あります。時間的な制約の中で、今回取り上げた3つのコミュニケーション的出来事の間にあるものを細かに取り上げることができませんでした。
理想としては、こうしたものも含めて分析を行えるようにした方がいいとももちろん思うのですが、今回取り上げたものは十分、今回の論争を特徴づける代表的なもので、かつ3つの「テクスト」それ自体でも十分に特徴的な分析として見ることができるとも考えています。ここらへん、もう少し説明が必要な気がしますが、ひとまずこのへんで。
「通知」として文科省が送る前にあるやり取りも取り入れるべきではないか?
確かにその通りで、すべてとは言わないにしても、通知ができていった経緯もいくつか目を通していました。今回の「通知」は、『国立大学法人評価委員会』で議論されながら作成が進んでいます。
大学改革の一環として平成15年7月に成立した国立大学法人法(平成15年法律第112号)に基づき、平成15年10月1日に文部科学省に国立大学法人評価委員会を設置。
特に今回の「文系学部廃止論争」の前に通知が決定される上での議事録は下記でまとめられています。
上記を読んでいくと奥野委員という方が、
文科省は選びなさいと書いてあって、予算はこう出しますよと言っておきながら、中期目標は自分で決めればいい、ということですよね。法人が選んだ枠組みについて、委員が是正を求めるというやり取りは想定していない。我々委員には、そういう責任はない、そのような理解でよろしいですか。
と国立大学の第三器中期目標を立てるにあたって、内容の確認を取るなどしています。しかし、細かに見ていけば当然、こういったことも論点にあがるのですが、実際に議論の場を見ることを分析に主目的にはしておらず、あくまでも「文系学部廃止論争」と対象を文部科学省の「通知」と日本学術会議による「声明」にさらに文部科学省による「応答」といった出来事に限定して(限定することはある程度、恣意的にならざるをえません。そうしないとどこまでも分析対象が拡散することになってしまいます)、そこで“表象”されているテクストから読み解ける談話上の特徴を主な分析として今回は発表内容をまとめました。
そういった意味では、「質問されれば知っている限りで応える」ということまでしかCDSではできないのですが(少なくとも誌面が限られる中では)、テクストがなんらかのそうした背景(広いコンテクスト)を持って意味として浮かび上がるし、当然、解釈もされることを考えると、ディスコースを分析する上では分析者の知識にも依存してしまうというのは一定程度、否めないと考えています。それゆえに、どういった立場で、何をどのように読み解くかということを理論、方法論として練り上げているのがCDSです。精緻でミクロな分析を好む人には「難点」とも言えるのがCDSですが、鋭く社会批評をするという意味では有効な方法論ではあると考えています。
抽象的な概念としての「新自由主義ディスコース」と談話の特徴である「対抗/対話ディスコース」が同じ位相で語られていることに違和感を持つ
この指摘を頂いたとき、素直に「その通りだな」と思ったのですが、一概におかしくないのではとも。というのも、ここでいう「新自由主義」とは確かに経済的な概念というか広く言えばイデオロギーを指しているのですが、必ずしも「イデオロギー」そのものを指しているわけではなく談話上で表象されていることばや論理から読み取ったものをあくまでも「新自由主義“ディスコース”」としています。
また、「通知」に対して出される「声明」で「対抗/対話ディスコース」となっているのも、時空間が異なる連鎖の中で紡がれるコミュニケーションの特徴として対になる特徴が浮かび上がるという意味では、同じく談話上の特徴として並置できるのではと。
ただ、そうだとしてもこの表記ではわかりにくいし、仮に「声明」の談話上の特徴が対話性が高くてもそれを「対抗/対話ディスコース」として表記するのはやや恣意的だと言わざるをえないようにも思います。この点、もう少し勉強を重ねつつ、どのように特徴を概念化させて切り取るかを考え直していきたいと思います。
ポスター作成における反省
ポスター類のものを作成するのは慣れていたつもりだったんですがどうしても他の締切にも追われてしまい急いで作り、誤字脱字なんかがちょくちょくあります…(所属と名前を書き忘れるという痛恨のミスも…)
サクッと作るにしてもポスターを作成するには丸2日はかかるというのが今回の一つの収穫です。その他、投稿のための文章作成なんかを鑑みると、内容としてまとめていても、手直しも含めて一週間から二週間ほど時間はかかりますね。さらに、遠征もしてとなると学会発表にはポスターであろうと、それなりに手間がかかるというのがよくわかりました。
おわりに
個人的には、「通知」では「人文社会科学系学部・大学院、教員養成系学部・大学院」と表記されていたものがマスメディアがニュースとして発信していくにつれて「文系」という表象に置き換わって議論が展開された、その談話における発信者にとってのストラテジー・受け手にとって解釈に影響を与える効果が気になっています。
脱コンテクスト化や記号のサーキュレーション(社会記号論系言語人類学で用いられることばだとか)という概念で語られる現象かと思うのですが、こうしたメディアディスコースにおける特徴となる「記号」の行き来はまさに「自己責任」においても起きている現象だと考えています。
ぼくが言う「自己責任」分析は教育における「主体性」やそれこそソーシャルメディア時代に誰しもが発信できるようになった上での「個人化」とも絡めて捉えたいと思っていまして、そういった意味でかなり多義的な概念としての変化と同質性、また歴史的な変遷というのも合わせて見て取っていきたいなと。
いま現在は、この方向性で勉学を重ねているのですが、今回の「文系学部廃止論争」についてはまた別途、論文を提出する機会が得られそうなので、今回頂いたご指摘などの反省も踏まえて、より良い形でまとめられればと思います。
参考文献
Fairclough, N. (1995). Media discourse. London, New York: Edward Arnold.
フェアクラフ,ノーマン (2012) .ディスコースを分析する 社会研究のためのテクスト分析.日本メディア英語学会メディア英語談話分析研究分科会,くろしお出版社.
中西満貴典 (2008).ディスコース概念の再考 : Van Dijk 及び Faircloughの言説概念の検討.岐阜市立女子短期大学研究紀要 57, 29-39, 2007
ラクラウ&ムフ (2000).ポスト・マルクス主義と政治:根源的民主主義のために 山崎カヲル,石澤武訳,復刻新板,大村書店
ウォダック,ルート&マイヤー,ミヒャエル (2010) 批判的談話分析入門.三元社
Wodak, R. & Meyer, M. (eds.)(2001) Methods of Critical Discourse Analysis.London: SAGE Publication
van Leeuwen, T. (2009). Discourse as Recontextualization of Social Practice.
Wodak, R. and Meyer, M. (eds.)(2009) Methods of Critical Discourse Analysis. (2nd edition) London: SAGE Publication.
柳田亮吾(2014).ポライトネスの政治/政治のポライトネス―談話的アプローチからみた利害/関心の批判的分析―.博士論文,大阪大学
吉見俊哉(2016).「文系学部廃止」の衝撃.集英社.
- フェアクラフ(2012)は,社会構造(例:言語)は非常に抽象的な実態であり,一方,社会的出来事(例:テクスト)は社会構造に影響を受けながらも実際に起きることとしているが,「構造と出来事のあいだに,中間的な組織的実体がある」とし,それを社会的実践と呼んでいる.いかなる社会的実践も,社会的要素の「節合」として捉えるFaircloughの理論は,ラクラウ&ムフ(2000:169-170)の“moment(節合)”と“articulation(契機)”に寄っている.要素がただ単に分散した状態ではディスコースの空間が構築されていないが,要素が契機として活性的に結びついていることを節合的実践と呼び,これを言説(ディスコース)と呼ぶことでFaircloughが示す“discourse as social practice”の意味が理解される[中西,2008:36]. ↩︎
- 社会文化的実践とは,テクストを生産したり消費したりするために必要な社会的な条件のことを指す. ↩︎