語彙と文法からなる言語構造──『コミュニケーション論のまなざし』から

 あまりにも当たり前に用いている「言語」を研究するのが言語学だ。ところで、どこまでが「言語」なのだろうか。 学校で習う文法? それとも、日常で用いる会話は? 文字は? そもそもどうやってぼくら人間はさも当たり前かのように言語を用いることができるのだろうか? どうやって無意識的にも文法を始めとした言語の規則性を捉えているのだろうか?

 一重に言語学といっても何をどう「言語」とし、どこまでを対象範囲として扱うのかにはさまざまな相違点がある。「わかりあえない」ことから人間のコミュニケーションは考えなければならない。きっとこの原則は学問ですら同じだ。

 とはいえ、誰にでも立場がある。ぼくはいわゆる社会記号論系言語人類学と呼ばれる学問分野に大きく影響を受けている。社会記号論系言語人類学の入門書に『コミュニケーション論のまなざし』(2012年、三元社)があるので、その観点から「語彙と文法」について簡単にまとめたい。

語彙と文法からなる言語構造

 文法は言語の規則がまとまったものだ。一方、語彙は文法的な規則性には当てはまらず、文法からすると特殊なものでもある。次の記事で語った、ことばの恣意性という特徴と同じだ。ある哺乳類の動物が日本語では「犬」、英語では「dog」と呼ばれるのは恣意的で、言語話者による慣習としか言いようがない。

 ざっくりいうと、「犬」は「日本語話者」、「dog」は「英語話者」のお約束を共有していることをも示唆していく。そのため、恣意的な語彙も慣習的なものと言える。

※ ソシュールのことばの恣意性(偶然性)に対するバンヴェニストの批判―第三者的視点による特徴づけ―は、以上のコミュニケーション論を踏まえながら事後的には必然的な言語生成の関係づけへと展開される。次の記事も参照。

 一歩踏み込んで専門的にまとめると、「特定の意味が、なぜ特定の音とその配列で表されるのかは恣意的・任意的で、したがって言語や言語変種によって不規則に異なり、そして言語間や言語変種間の弁別(区分)の符丁(しるし)として機能」(小山 2012: 92)する。いわば、言語構造(語彙と文法)は社会集団を示す。

 けれども、ことばは変わっていくし、社会も変わる。では、その変遷はどのように捉えられるのか。そこで、着目するのがことばの使用や解釈に伴うズレだ。

著者 :小山亘

出版日:2012年4月

出版社:三元社

『コミュニケーション論のまなざし』

 (4.5)

¥1,870(税込)

小山亘さんの社会記号論系言語人類学の理論的基礎をいちばん簡単に解説した入門書。ただし、内容は簡単なわけではないのが難点。